海洋空間壊死家族2



第11回

ネクロフィリア   2003.6.18



きょうはなにを着るのかな
きみはからだをこわばらせて
ほら起きなさい、子供じゃないんだから
ぼくは寝ているきみをやさしく抱きかかえる
しっとりとした肌に思わずぐっとして
かみのけの匂いをふかく吸い込む

きょうは花を摘んできてあげたよ
いい匂いだろう
あまり動かないでね
白い花だよ
崩れてしまうよ
ああ動いたらだめだよ



「男子厨房に入らず」という言葉があって、それとは対極的に最近では「男の料理」なんて慣用句もあって、いったい我々男子はどうしたらいいのか戸惑うのであるが、先の言葉のもとをたどっていくと中国の謎の道徳男孔子さんに行き着いて、その意味はというと、昔厨房では鳥や豚さんたちが、じかにそこでシメられていたので、それを見るのは忍びない、それを見たら食べれなくなる、だから、男子たるもの、厨房に入ってうろうろしてはならない、という、嘘か誠か、そんな自分勝手な言い訳じみた説教が言い伝えられているのであるが、しかし実際の所、鳥や豚さんたちの殺されるのをじかに見たり、悲鳴を聞いたりした場合、かなりの確率でその料理への嘔吐率というのは高まるのではないだろうか。
日本という平和な国に暮らす我々はそういう殺伐とした状況に陥ることはまずなくて、あまり想像できない、それ以上に、自分が食べているものが生きていたなんてことにも気がまわらないような人間も存在するぐらいで、江戸時代の将軍は刺身が水の中を泳いでいると思い込んでいた、というような冗談ともつかない話のようなことも現代日本においてはあながち聞き流すことのできないリアルな説話なのかも知れない。
最近では、魚のさばくのや、骨抜きなんてのを東南アジアの低賃金者がやってそこから日本のスーパーに送っている、というような情けないことにもなっていて、鳥や豚もたいてい、スライス、一口サイズに切り分けられて売っているので、例えば昨今、料理しようとすると、包丁を一切使わなくても確実に何かしらのものができあがってしまう。
さらに、外食、中食なんてのが国を挙げて流行っているから、料理自体しない、したこともないという人間、子の親までいるようで、そのような状況では、トンカツやハンバーガーが、まったく石油製品のように工場から生まれてくると想像してしまうアホな女子高生というのも、マスコミの作り上げる虚像とは言い切れない面がある。
しかし、ここで、そういうわけで食べ物をまるでゴミのように残しては捨ててしまう若い人なんてのを叫弾しようという意図はない、というか、あやうくしそうになったが話を元に戻したい。
今回私が話題にしたかったのは、人間はどこまで非情になれるかというところである。
人間が口に入れるもので、例えば先の例でいうと、その命の脈動の感じられない、泳ぐ刺身のような、捨ててしまえるというような、憐憫度は限りなく0に近いものがある反面、その断末魔の叫びを見聞きした食べ物はちょっと食べにくいという憐憫度1というような状況もある。
さらに、自分が飼育している動物、これは畜産家の人たちの話ですな、例えば、養豚場の人が豚を食べれるのか、さらにさらに身近な例で、愛玩動物、つまり一般的にいうと、自分のペットを食べてしまえるのか。
そういう憐憫というよりは、それをはるかに超越した恐怖と戦慄の食対象という問題に関して、人はいったいどこまで許容範囲として受け入れることができるのであろうか。

私の体験でいうと、畜産家の人というのはまるっきり大丈夫で、どんどん口に入れていくという感じである。
ウチのおじいちゃんは豚を親単位で3頭ぐらい飼っていて、それを見るのは幼い頃の私にとってたいへん楽しいことであった。
豚が生まれたばかりの時期には、おじいちゃんが豚小屋に寝泊まりして子豚が親豚につぶされて殺されないように見張っていた、というような苦労話もあとで聞いた話なので、その頃、ほんと豚というのはかわいくて楽しいだけのピンキーな動物だったのだが、そして、あまり明確には覚えてないけど、おじいちゃんはその豚に名前をつけて呼んでいたという記憶がある。
しかし、そんなおじいちゃんもトンカツや豚汁なんてのを平気で食べていたから、多分、「梅子よ・・」なんて思いながら豚を食べていたのだ・・といまさらながら思うにつけて、別に愛玩として飼ってなければ、一緒に暮らすような密接な関係にあっても、実際問題食べるのにためらいはなかったわけで、そういう意味では畜産というのも、工場的な無機質な面があるのかなあと思ってしまう。

そんで今度はさらに自分の身の回りの話でいくと、ペットを食べてしまうとか、自分の恋人を食べてしまうとか、そういう話は、今の人格の中では過去になかったことなので、まさかそんなことはできないよな・・と思う私にいくばくかほっとしているのであるが、しかし、本当に腹が減って飢餓状態になったり、あるいは、かわいさあまって憎さ百倍の愛欲煩悶地獄に陥ったりした場合、果たしてその冷静な、道徳的判断が保てるか、というと、私の場合、どうなのかな・・と不安になってしまうネクロマンサーな兆候というものがそこかしこにあるような気がする。
例えば、親しい人間が死んだとき、火葬場で死んだ人間の骨を箸でいじくりまわす瞬間に立ち会うということがありますな。
あれが何回行っても慣れない、というか信じられない、というか「てめえら人間じゃねえ!」というどこかで聞いたような怒りと撃鉄の瞬間である。
さらにいうと、私はその時吐いてしまう。
つまり、いま客観的に考えて、その行為への反感、嫌悪の情というものは、ある意味その対象物への独占欲というか、執着というものを表わしていて、それを生前に引き伸ばして考えてみた場合、もしかすると、もしかするぞ・・ひょっとしたら、ひょっとするぞぉ・・というヤッターマンのような迫り来る漸増する恐怖と戦慄の変態衝動というものをそこに感じ取ってしまうのである。
あれは夢野久作の話だったか、死姦癖のある若い男というのがいて、言葉通りの、何だかなあということをしているのであるが、その男の感覚というものは、もしかするとそういう所有欲の延長線上にある、その現在の状態で全ての時間と事実を止めてしまうという、写真行為、記録行為に似た、禁断の異次元世界であって、しかも実は一般人としてもゴク近いところに、それはぱっくりと口をあけているのではないか。
そんな腐敗臭に似た、しかしどこか甘い感じのする、あの結核病棟のような匂いが私の意識のどこかから流れ出てくることがあって、トキオリ、私はドキリとするのである。
つまり、身近な人間を私は食べれてしまうのではないかという、川口浩もびっくりの髑婁キープ棚のカニバリズムが私の心のどこかに巣くっているのではないだろうか。

ここでまた話が逸れてきたようで元に戻したいのであるが、そういう親密度の高い生物というのは、やはり口にはできないもので、決して奥さんや子供や友達をどうにかしちゃいたいという主題ではないのである。
いったい、食べれる食べれないの線引きはどのようなラインで引かれているのか。
私の場合、それに関して、一般的な人間が食べれるものと私の食べれるものとの間に微妙な乖離というものがある様な気がする、そこに問題を解く鍵がある。

例えば、一般的に食べられているもので私が食べれないものに、「どじょう」がある。
私が思うに、魚というのは痛覚がないなんて巷にいわれているように(しかしこれは釣りビトの言い訳であるな)、脊椎動物の中で最も頭の悪い、というか、感情の見いだせない生物であると思っているのだが、しかし、この「どじょう」というのは別で、ある意味イルカよりも賢く、中学生より複雑な感情を持つのではないかという気がしてならないのである。
それというのも、物心がついてから部活動を始める年頃になるまで、つまり自然児として山川を遊びまわっている期間、だいたい10年ぐらいの間、ずっとどじょうを飼っていたのである。
どじょうというのはぬめぬめしていて、細長くて、ある人種には評判の良くない格好をしているのだが、目はつぶらで、ヒゲがちょろりと生えていて、つかむときゅうきゅうとかわいい声で鳴く、熱帯魚なんかより断然愛玩に適した魚なんである。
気を抜くと、どこから逃げたんだ?というくらい不自然に消えてしまうこともあるし、あるいはその餌の取り方なんてのを観察していると、外に対する恥じらいなんてのも伺えたりして、本当にかわいらしい、いじらしい魚である。
そんなどじょうさんを踊り食い、あるいは柳川鍋なんて聞くもおぞましい食べ方で食べる人間がいると知ったときのショックは大きかった。
さらにある筋からは、まず鍋に水を張り、真ん中に豆腐一丁沈めてそこにどじょうを放ち、じわじわと熱していくと、どじょうさんは熱いから比較的暖まってない豆腐の中に逃げる、そして茹であがるとどじょうの入り組んだ「どじょう豆腐」が出来あがる、なんて、妲妃や西太后やカトリーヌもここまでは・・というような残忍な料理をしているところもあると聞く。
ヨーロッパの動物愛護団体や、タマちゃんのことを想う会は、クジラやアザラシなんて局所的な動物にワーワーいわんと、こういう人間性の疑われる、人類の進化に弊害のあるところに光を当てて、もっと活発に活動していただきたい。

これは一般意識との乖離というのとはちと違うが、犬というのも私はちょっとご遠慮したい。
一般には食われてないと思うけど、中国では当然のように食べられているし、日本でも、沖縄や一部地方では食べられることも多かったと聞く。
ウチの歴代の飼い犬の名前を列記してみると、シロ×2、タロウ×3、チビ×2、チコ、バンとある。
今思い返してみるに、生きているうちにもっと遊んであげればよかったなあという後悔の心が、我が愛犬のみずたまりにひたひたとあふれかけている。
まあ、早い話、犬を飼ったことのある人は絶対に犬を食べることはできないと思うのだ。
災害時の非常食用に飼っているという心構えがない限り、つまり、愛玩目的の犬は困ったときでも食われないと思う。
この辺りに食える食えないの線引きの境界線がにじんで引かれているような感じである。
どんなにかわいいコアラでもパンダでも自分が愛玩用に飼ったことがない動物というのはから揚げにして食えてしまう気がする。
逆に、どんなに一般文化として食べられている動物でも、ペットとして飼ったことのある生物は、まあ正常な人間の場合食べることはできないのではないか。

昔旅先の中国で、犬の鍋、たしか犬火鍋というのが屋台で売られていて、中国人たちがみんなうれしそうにその鍋を露店でつついたりしているのを目にした。
店先の鉄格子の中のかわいい犬を見るにつけて、ナンタルコト!とイタリア風に嘆いてはみたものの、その現場においては、まあこういう食文化もあるわな、と妙に納得してしまう雰囲気がそこにあった。
まわりには犬の散歩をしてる人なんて皆無で、自分が食っていくのにせーいっぱいがんばっている感じで、その非情の仕打ちを責める人間のうさんくさいヒューマニズム感覚にふと我に返ったのである。
そのうちこの国でも犬をペットとして飼うのが当然という文化が広がったりして、この犬火鍋も歴史の彼方に消えていくのかも知れないと思うと少しだけ郷愁じみた感慨が胸に去来した記憶がある。

さあ、このように見てきて、ハエある非情食第一位に輝くのはいったいどのレベルの食対象レベルなのか!と思うに、ペットを食おうが、クジラを食おうが、あるいは佐川君や女郎グモのようにつがい相手を食おうが、リリトの如く、血を分けた子供を食おうが、まあ大したことではなく、それは多分に個人個人の愛玩対象という、非常にパーソナルな非普遍的問題である。
そう考えると、非情食のライン引きも無意味であり、どんな食行動も自然界においてはそれほど異端的な行動という感じはなく、つまるところ、食べ物をゴミのように捨てる行為、ビックリマンチョコのシールだけ抜いてチョコウェハーは捨ててしまうような行為のみが普遍的には「非情」なだけである。





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