海洋空間壊死家族2



第33回

除夜   2003.12.23



伸ばした手の先も見えぬ真暗闇
人の気配だけが先に歩み続け
音もなく風が吹く

私はその気配の行列の後を追いながら
ちっとも人に触れないのを不思議に思う
私の頭の地図では緩やかなカーブを描いて
人々の行列は大きな輪になっている

行く先に決してたどり着くことはない
とわかってはいるが
微塵も不安はなく
ある安堵の心を覚えながら
ゆるゆるとその輪に加わって
いつまでも歩き続けている
歩く



もう幾つ寝るとお正月という歌がある。
なんだか感動も感傷もない歌で、お正月になったら凧をあげてコマをまわして遊びましょうなどと、まるでAC公共広告機構のような宣伝文句をわざわざ歌にして子供に歌わすというその意識が理解できない、まあとんでもない愛国プロパガンダ唱歌である。
それにしてもお正月というのはなぜ正しい月なのかよくわからぬままに、その他大勢の有象無象の人々が何かにつけて待ち焦がれ、しかもそれまでにいろいろなことに整理とケジメをつけようとして「なんとかしとかなくっちゃ!」とあたふたとしている、というアクセルとブレーキを同時に踏むような二律背反の焦りというものが共生して存在する世にもめづらしい特徴を持つ催しである。
あとどれくらい?という問いをポジティブにとらえようが、ネガティブにとらえようが、その日は確実に一年に一度やってくる。
そしてその数学的特徴としては12月31日と1月1日の継ぎ目に厳密なる0(ゼロ)の概念がなく、なんだか気の遠くなるような鐘の音とともに、これまた108回というなんだか分かったような分からないような曖昧模糊としたさっぱり感のない回数の空間的微細動を聞きながら、ふたたび今年一年が突然のように一から始まっていく、という一から出直しやり直しの静かなるオタケビであって、それは考えるに、一神教的西暦との大きな差である。
最近日本中で行なわれているカウントダウンというのは、3、2、1、0!だあー!というその瞬間にジャンプしたりして「今俺は地球上にいなかったぜ」というような、つまりそこには0から始まる明らかな絶対ゼロ感覚というものがある。
それに対して多分に多神教的なアジア的観念から見ると、継続的ではあるがそこに綿密な連絡性はなく、しかしてそこに明確な断続もない、というような玉虫色の決着を好むゆるやかな感覚というものが年の変わり目にある。
それはまさにある意味繊細な感覚を持たない限り発見しえないような微妙な、微分感覚であるのだが、つまり、古来から続く和式(中華式)暦思考では2000年問題はありえないのである。
現代日本21世紀が2001年から始まると言われてピンと来ないのも、今となっては無理はないのである。

ともかくその来たるべき正月に向かって人はいろんな行動をとるのであるが、一般的に言って大掃除というのはまずハズセない感覚ではないか。
いまさら煤払いや畳替えではないが、何となく、散らかってホコリのたまった汚らわしい部屋で正月を迎えては、先祖や世間や沽券やその他もろもろの内聞外聞に対して申し訳が立たない・・という脅迫観念があると言っても過言ではない。
何よりオノレの心がそれを許さないであろうという気がする。
普段は「掃除」なんて何回しても実際それ以上にはならない、すぐに崩れ去る塞の河原の石積みたいなもんで、志ある人間にとって非常に非生産的かつ無駄な徒労行為である!なんて言ってるわりには、年末になると、大掃除だ!とはりきるような人間もいるわけである。
まあ最近じゃあそういうことどもを奥さんや子供に申しつけて自分はサラリーマンとして目を背けちゃうという卑怯なことをしているんだけど、実際子供の頃ってよくそういう手伝いをさせられて、ヒイヒイ言ってた記憶がある。
うちの実家は正しい巨大農家だったから、爺婆の家の障子替え、畳叩きなんてのは一大騒動で、ダダ広い庭が畳と障子で埋め尽くされる風景というのは圧巻であった。
しかも赤城オロシの吹きすさぶ拷問場のような寒さ冷たさの中で行なわれるそれら作業は稚き子供にとって耐え難い恨みつらみのお手伝いであったのである。
しかも、二つ上の姉が小学生の高学年くらいになると反抗期に突入して、つらくてきつくて汚い仕事は私の双肩にかかるようになり、昼は昼でそれらを片づけて、夜になるとおせち料理の下ごしらえをさせられる、という今考えると信じられない、怒りと絶望の囚人生活なのであった。
んで思い出し腹立ちついでにいろいろ書いておくと、夏休み一カ月半、草ムシリと荒れ地耕し(しかもクワ!)で終わった中学二年間や、削岩機でのコンクリート基礎破壊や電柱埋めたてをさせられた高校二年間など、思い出すもウメキとため息の暗黒の日々がよみがえってくる。
しかし、今となってはそれも懐かしく楽しく思われてくる、というさだまさしもびっくりの、時がすべて笑い話に変えてしまった感があり、さらに私自身の現在の生活、精神に良い影響を与えているのはホボ間違いがなく、親に対して感謝こそすれ憎悪の心は持ちあわせていない、というところが、ボクって性格いいなあ・・とわれながらつくづく思うのである。
例えばクワで木一本掘り起こすことができる人間というのもいまとなってはめづらしいだろうし、この間びっくりしたのは生栗を包丁で剥けない人間がいるということであって、それらはまさにそういう辛苦の日々がなければできなかった特技である。
しかし、とはいっても、それらの特技も実際には何の実利にも結びついていない、というのが惜しくも情けない三文事実である。

そういう下積み時代を経て、じゃあ最近、年末年始はどうしているのかというと、ここ十年ほど、まったく判で押したとはこのことのような、代わり映えのしない年末年始の過ごし方をしていて、我ながら、もう少し進歩してもいいのではないか・・と思うのであるが、今となってはその習慣を宝箱のようにそっと慈しむような気分もあってなんとも言いがたいのである。
具体的にはまず、実家である群馬県に帰ると、ひとしきり実家の人間と酒を飲みまくる。
酔っ払いとして世に知られる私も、実家に帰るとだらしない下戸と呼ばれるほどに奴ら馬鹿のようにうわばみのごとく酒を飲むから、それにつきあう我が体は日に日に弱っていき、31日の大晦日にはもう体調、バイオリズムはここ一年間で最低レベル、というところまで落ち込んでいる。
そのうえ今度は31日の晩に違う方面からお迎えが来て、これが高校生の時から変わらないメンバーでまず酒をのみ、そして2時3時を過ぎた頃に高崎観音山、という巨大な白衣観音の下に鎮座まします護国神社という右翼系の神社で初詣で、おみくじ、そのあともう一度酒を飲みに街に帰る、というワンパターンな過ごし方を10年以上ずうっと続けているのである。
そして金のない高校生の頃には厳寒の高崎城公園などで、つまり屋外で同じことをやっていた!というのが、若さとはほんに恐ろしい、後進おそるべしの衝撃の事実なのであった。
さらに明け方になると榛名山方面によたよたと登っていき、初日の出を拝んで、ほんじゃあまた新年会で・・という遺言のようなつぶやきとともに明け方7時頃帰宅して、8時からウチの新年のおせちを食べて(もちろん酒付き)、舌の根も乾かぬうちにニューイヤー駅伝(毎年群馬開催)をわざわざ国道17号線まで出張って行って観戦応援、昼飯(もちろん酒付き)アンド二度目の初詣で(烏子神社)、その後、つまり夕刻ようやく無罪放免となって眠ることが許されるという、20時間飲みっぱなしの非人間的ハードスケジュールなのである。
そしてこれまた当然なんだけど、よわり目にたたり目の自虐行為はほんと冗談でなく我が体を蝕んで、毎年ヒドイ病気になって高熱せき嘔吐の症状のまま正月を過ごして関西に戻る、という強行必殺年末年始は恒例吉例の普遍的様相を見せているのである。
自分のせいではあるけど、正月って私にとって、世間のきらびやかで華やかな、ややもすると春の海なんかが奏でられちゃうようなハレの日とまったくかけ離れたイメージの暗黒の安息日なのである。
結婚してからは奥さんがこれをはたから客観的に観察してはアホだなあ、という顔をして眺めているんだけど、実際ここまで続いたものってなかなか変えられるものではないのであるよ。
伝統の古典芸能のようにそれ自体時代の風俗とかけ離れてなんだか意味不明になっても、その根源にある崇高な精神を廃れさせるわけにはいかない、キャシャーンがやらねば誰がやる!というような当事者にしかわからないそんな感傷もあるわけである。

ということで何はともあれこの年末も実家に帰ろうと思っている。
感覚としては、熱くて入れない露天風呂に入ろうとする感覚。
そのまま外にいれば凍えてしまうので、火傷してもいいから入っちゃおうという感じ。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。

さあ、また人殺しの年末年始が始まるのだ。





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