海洋空間壊死家族2



第36回

R-20指定   2004.1.21



僕の性器の粘膜の
群がるこの赤黒いダニに似た虫どもは
僕の快楽を餌にして生活して
代わりに僕に突きあげる陶酔を与えてくれる

この寄生なしにはもう生きていけないし
すでに寄生が目的だろう

僕のわななきに
僕のしたたりに
歓喜して脈打つこの赤黒いほんの小さい虫々は
僕の粘膜の道を爆発的に埋め尽くして
はみでたやつがほらそこにうごめくのが見える



ずうっとずうっと言いたくて仕方がない、「王様の耳はロバの耳」と言いたくてうずうずくねくねしている男のように、その言語発信学的欲求に対して、その捌け口を見つけあぐねてきて、ここにようやく大声でそれを叫びうる穴蔵を見つけて喜びと感動にうち震えている男が一人いるのであるが、これはつまり私のことである。
そしてそこまで差し迫った発言願望の中身はいったい何かというと、「成人式の時に振り袖で出張っている女の人の大半が肩から掛けているあの動物的毛皮型ショールというのか襟巻きはまるで洋式便所の便座カバーみたいである」ということである。
あーすっきりした。
穴蔵ってここのことね。

まず昔のことは忘れてしまってなんともいいようないのであるが、近年この季節になっていちいち、あれま?と驚いてから、ああそうか成人式か!と衛星中継におけるモスクワのノグチさんのように一呼吸遅れ気味に驚いてしまうのは政府が第二月曜日なんてよく分からない成人日を決定してしまったからである。
そして驚きついでに、街を行くその成人式出席風男女を、特に男にあんまり興味ないから女の子を観察しておるのであるが、年々その顔立ちというのか風貌というのか、まあ決定的にいうとその人品というものが劣悪卑小化していくような気がするのは、私が漸く年をとっていっているからなのであろうか。
特に今年のはひどいな!と思うのは何かの偶然によるものなのか、それとも全国規模での20ランクダウンのトップテン落ちの下落率なのか。
今年初めて目撃したのは近鉄難波駅のエスカレーターで、初めて見たとき、冗談でなく、中学生だと思ったのだよね。
朝の9時前だったけれどその7〜8人の群れはダリの「記憶の固執」の時計のようなだらしなさで手摺にだらっともたれていて、その中に振り袖風が2〜3人いたのだけれど、電車から降りてもうすでにして着崩れというのか、からだの線まで崩れてしまっていて、あらまあ着物着たらモウちっとしゃんとしてないと昼までに女郎夜鷹になっちまいますわよー・・と他所の子ながら心配したのであるが、その後、着飾ったヒトの群れを発見するにつれ、さっきの女郎も成人式だったのでは・・という疑問が確信に変わるまではそれほど時間はかからなかった。
ほんで私も人並みには客観的に一歩引いて我が思考概念を眺めることができるタイプだから、「これは私が年をとってしまって、“最近の若い者は”式に無根拠な若年排撃のレトリックに陥っているのじゃないか・・」と自ら戒めつつ過去の成人式のことなど振り返ってみるにつけても、やはり成人式に出てくる女の人というのは、少し背伸びしたような、幼さの中にも凛とした不可侵性、大人びた風情が漂う、あやかしの色気というものがあったような気がする。
まじめタイプもヤンキータイプも、きれいメもそうでないメも、目を閉じてしまうような多少の背伸びというものがあったような気がするのである。
しかしこの今年の群れの大勢(たいせい)は、そのような人間の発展や進歩への姿勢そのものを否定するかのような、今のままの自分が好き!というまあそれはそれでいいんだろうけど、それじゃ進歩がないだろ・・と思うほどに自分に対して無批判無統制であるような気がするのである。
そうでなきゃあんなだらしなく公道、道行く人が見てる中でだらだらできるわけがないのである。
特に今日はパンクロックのコンサートや、お母さんといっしょ公開録画の日でもなんでもなく、みんな仲良く着飾って能動的に出席している成人式の日なのである。
彼らを見ていると、自律神経失調症ってこういう人々のことを言うのが正しいのではないであろうか、と思うくらい自らをコントロールする術を失っている。
そしてそれは、自分を客観的に眺めたり、人生を美しくするような、つまり人間としての、日本人としての「誇り」というものがまったく欠落しているといっても過言ではない。
知ったかぶりや、大人ぶる、カッコつけるという行為はそれはそれで恥ずかしいものだけど、そういう姿勢のなくなった人間はそこで進歩を止めて低知能低精神生物となって一生を終えてしまう可能性が高い。
つまりですな、今年の成人の基本的考え方というものをある意味一方的に断定、総括するならば、「今の自分が最高到達地点、社会や他人が悪いから不都合なことが起こる、わたしはやってない」、とまあこれはどこかで見たことがあるなあと思ったら、某宗教団体のグルの考え方とほぼ相似なのであるな。
たしかにそのふてぶてしさと汚さと傍若無人ぶりはあの男にそっくりなのである。

そこで、はてさてここまで成人どもが堕ちてしまった理由というものを懇切丁寧にも考えてみたとき、3つほど理由が考えられる。
1つは「競争=悪の社会(平等社会)」で成長したこと。
団塊ジュニアの世代という、よく分からない名称の今30くらいの人々(つまり私めのことね)までは、ある意味戦後日本の厳しい遺風の残った社会に晒されて生きてきたけれど、ここから3つくらい年を下ると突然にして向上心のない人間が急増するというのは経験的にそんな感じがする。
思えば変態体育教師の松本勝が体罰で訴訟を起こされたのも私が卒業して3年くらい後であった。
つまり物分かりのいい大人たちによって、差別は良くないとか順位をつけるのはおかしいとか、父親にも殴られたことがないのに!なんて甘やかして育てられた子供達が今次々と社会に向かって解き放たれつつあるという恐るべき事態が現代日本に広がっているのである。
やつら、知識の多寡ではなく、ほんと、ものをしらんというのか、智恵のない輩が多すぎる。
応用力がなくて、パニックに弱いのが丸見えなのである。
ま、運動会でゴール前で手を繋いで同時にゴールインさせられたような子供に何かを期待するほうが間違いである。

2つめはかつてない長期の不況下での成人(自我の芽生え)を経験したこと。
どこにも景気のいい話のない中で、なにをしてもムダだぁドロンボー!というあきらめとため息の負け犬根性が染みついてるから、悪い意味での無常感につつまれて、何かやろうとする気概や、物事の本質に迫ろうという意欲が一般的に30%(当社比)くらいに落ち込んでいる。

3つめはそのような不況の中でも生活レベルは悪くないということ。
親が高度成長あるいはその後の強いニッポンの時代を乗り越えているから比較的裕福で、つまり親の資産を背景とした無根拠な安心感が停滞していて、「不況だから仕方ねえやぁ」と、頭使わないで適当に日雇いバイト仕事を流しているという感覚にあふれている。
たしかに家賃と食費と光熱費諸々は親に出してもらっているから、適当に日銭稼いだら、電話代払っていい服買って遊び回ることができる。
実家に3万円も入れている!というのが彼らの贖罪レベルなのである。
このような寒天土壌の無菌室とも言える実験病棟でのホムンクルスどもが何かしらの気概を持って世の中を歩き回るようなことはありえないといっても過言ではない。
しかもそれは何も彼らだけの責任でなくその片棒を大人どもが担いでいるわけである。
だからもはや、街の中で彼らがお昼寝してもウンコしても交尾しても誰も非難はできないのである。

ただ、こうやって実際書いてみると、やってきたことや意識レベルは今も昔もあまり変わらないのかも知れないな・・という弱気な心がじりじりと芽生えてきて、やはり“若い者いじめ”の域を脱していないのがちょっぴり悔しいというのかムナシイ気分である。
つまり昔からガンで死ぬ人は多かったけど、そのガンという病気のプロセスがわかるまではよく分からないまま死んでいた=昔はガン患者は少なかった、というような想像捏造事実によく似ているのではないか。
そして、そのような欺瞞のたすきリレーの中、あいも変わらず連綿と成人式の歴史を綴ってきたのが「洋式便所の便座カバー」なのである。
あの意味の分からない毛皮襟巻きが日本人の怠惰と退廃の継続を証明する時代の証なのかもしれないのである。

話は変わるけど、あのふわふわの毛皮の群れは最終的にどうなっているのであろうか?
よく考えてみるまでもなく、とんでもない量のふわふわが社会に流通していると思うのであるが、一年であれを見かけるのは成人式の時くらいである。
経験測からいうと、あれは成人式以前、つまり二十歳になる前の中高生では使いようもないし、それ以後も初詣なんかでつけているヒトもめづらしい。
言うまでもなく成人式は一人一生一回きりである。
そこで考えてみたのだが、その後、お宅の便座カバーとしてウチのお母さんに密かに再利用されているということはないかしら。
あのふわふわ具合は便座にはもったいないけど、でもあの上に座ったら癖になってあれ以外の便座にはもう座れませんわ・・という恍惚のトイレ人生が待っているのかもしれないのである。
娘のほうも「もう!お母さんたら!」なんていいながら心の底では「あぁ・・」と声にならない成人の悦楽の嬌声をあげているのではないだろうか・・。





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