海洋空間壊死家族2



第46回

郷愁   2004.5.3



なつかしいこがねいろの秋の稲穂のなか
つちのかおりに誘われて枯れ草の畦道がゆらゆらと続く

おいかけるむぎわら帽子がずんずんゆくけれど
あれはだれなのか
てにした袋にいなごのむせかえる呼吸が白く結露する
風の音がざざあとひとしきりして
空ははなされたように光り拡散する



最近街を歩いていて目につくのだが、若い人の、というか、あれは若いかどうか分からないんだけど、ワタクシ自身と異なる文化の、茶色い髪の人間がみんな若い人に見えるという、一種の病気だなとは思うけどそういう判断基準からいうと「若い人」の髪の毛の特徴って、ホントどこにいっても生息するオオクロアリ的なありがちの、みんなおなしおなしのシンクロナイズドな傾向がある。
まず男からいうと、頭の天辺のウルトラセブンのカッター部分、つうかセンターラインを盛り上げる、ま、あまり言いたかなかったけど若い言葉で言うとソフトモヒカンてやつね、北斗の拳でいうと岩山両斬破なんかでやられちゃうタイプの落ち着きの無いヘビメタな感じのココナッツボーイである。
あれはベッカムあたりから来ていると言われているけど、その乖離具合ははなはだしく、ま実際にはいまだ頭髪頭頂の薄くなっていない人間のフロイト的な欲望のふきだまりである、と言ったらしっくりする、世のオジ様たちにはできない憧れと羨望の対象、つまりオジ様たちと峻別されるなんてことに誇りと喜びを感じる、あまりポジティブな気概の感じられないワカモノ文化であるような気がする。
とくにもう、無理でっせ、というような脂ぎった短めの頭髪の子が無い物ねだりでやっているような感じがするのは気のせいなのだろうか。
それから女の人でいうとあれはなんて言ったらいいのだろう、今ある髪の毛を3倍程度に膨らしてからこてこてと頭頂方面に盛り付けて遠くから見ると一本のマッチ棒のように見えるように上方にハードに固めつけるやつ。
キイロスズメバチの巣ってあんな感じである。
たぶん春もサカリになるとあの頭の塊の背中部分はかち割れて、中から何か蛾のような身の毛もよだつ飛空生体がよじ出てくるような気がする。
男女とも、手持ちの髪の毛を上へ上へと積み上げていって自らの空間的高低基準値を出来るだけ高めようとしているところが共通しているのだけれど、これはいったいどういう文化の延長線上に位置するものなのであろうか。

若さとはみんなで一緒のことを一緒にすることである、というのはオランダのJ.アダムスの言葉であるが、振り向けばまさにそのとおりの、周囲環境動向対応社会であるということは自明の理で、鰯や秋刀魚のごとく、みんなが右向きゃ右向くし上向きゃ上を向く。
今時そんなもんにかかずらってる人間てどうしたもんかなとは思うけど、実際そういう「みんなと一緒ならそれで安心」という感覚は人間の心の奥底に潜む怠惰な心の動きとして否定しがたいものがある。
たまに満員電車のってその流れに身をまかせてついでに前にいるオネエちゃんのケツなんぞに手あててたらホントいうことない幸せな感覚があるもんね(してませんよ)。
そういう大量回遊魚の感覚はまあともかくとして、問題はあの髪型が一般的判断基準に照らし合わせてかっこいい、あるいはかわいい、美しいというものなのであるかというところである。
個人的な感想で言うと、まったくかわいくない。
あの髪型、男女両者に共通するのはこてこてのぎたぎたに固まっていて、さわる気がしないさわりたくないような非人間的ケラチノイドであるというところである。
さわる必要もさわらせる必然もないのだけれど、人間の感傷というものはそういう感覚的なところから発露していくというのは納得性の高い論理であるからして、彼らが嫌悪感をもって迎えられる可能性は非常に高い。
たまに満員電車のってその流れに身をまかせてついでに前にいるオネエちゃんがあの巨大蜂の巣だったらケツさわる気もしないもんな(しつこいな)。
朝っぱらからあの頭の人間が歩いてるのを見ると私はとっさに銀河鉄道のプロメテウスや、サンリオのこえだちゃん、あるいは衣笠茸のグァバを思い出してしまってそのたまらない思い出とともに吐き気とめまいが去来するというのがなんとも悲しい性である。

そういうファッション的なファッショ的な症状にも、群れとしての意図的な同一方向性と操舵性というものがますます顕著な日本社会なのであるが、最近テレビを久しぶりに見て、おー!?おー!!と以前からの疑問が氷解し、かつ溶解した事実がある。
それは韓国文化奨励の波である。
2、3年前くらいから、テレビに出てくるオネエサマがたが韓国人に見える、あるいは韓国人であることが多い・・と感じていた、というのは以前ここでも書いた気がするのであるが、それはなにも私がオジサンになってしまって若い人間の顔がみんな一緒に見える、というのと同義の、サミシクもサモシイ状況下にとどめおかれてしまったということではないことが判明した。
テレビっ子の皆様にはご存じの通り、韓国ドラマや韓国映画が今大流行りなのだそうである。
あまり周囲でそんな話を聞かないというのがこの話のミソなのであるが、まあ、韓国のドラマや映画がおもしろいというのはよくわかる。
儒教や道教や、アジアの霊性文化の中から生まれてきた、泥沼の中に生える蓮華の花のような恋の話というのは、アーリア人のシンドバット的なニーベルング的なオオソレミィヨなストーリーよりも、我々日本人の心にはググッとくるものがあるのは体験的にわかる気がする。
そしてそういう風雅の心は急速に日本人の自前の精神中核から風化しつつあって、そういう風情を我々は異国の、特に隣国アジアの人々や田園風景、恋愛ストーリーに仮託して見つけうるというのが昨今の状況である。
考えてみれば悲しいことであるが、この電脳ファッショの生活をいまさら変える気分もないからそれはそれでいたしかたのない傾向と対策な訳である。
そしてその委託心情的文化のまっただなか、ヨン様ヨン様と韓国俳優が大人気なのだそうな。
これはまさにこの日本人の逃げ場としては非常にありうる方向性なのであるが、しかしここまで韓国韓国・・が続くと、いくら民間人がアホといっても何となくおかしいと思い始めるヒトが出てくる。
テレビを久しぶりにつけると、今まで韓国女性が氾濫していたのが、今度は韓国男性がにこにこしてバラエティ番組に出ていたりするのである。
なんで韓国なのかという話である。
はっきり言えば韓国がおもしろいといってもタイや中国にはかなわない気がするのである。
私は韓国・朝鮮が嫌いなわけではなく、いや逆に水菜のキムチが最高の漬物である!と思うほどの朝鮮文化万歳の人なのであるが、客観的に見て中国映画のほうが韓国のそれよりも三枚も四枚も上手である。
タイやベトナムの映画のほうがよほど力が抜けていて、こなれていい感じなのである。
単刀直入に言うと、これは誰かが韓国の文化を日本社会に溢れさせて、慣れ親しませて、互いに仲良くさせようというユネスコもアンタックも真っ青のピンフ的意図をもって動いているのではないか!という気がする。
相親しむということ自体は喜ばしくあらまほしきことであると思うが、この、「誰かが」というのが私は嫌いなのである。
草g剛が韓国風姓名をもって韓国との掛け橋となって活躍しているらしいが、このことがコトの本質を物語っている気がする。
たぶん韓国側はこの降って沸いたような隣国のブームに戸惑っているのではないか、そしてお手盛りの、やらされブームがいつものように終わった後、ふと気づくと相手はそっぽを向いていて、糠喜びのその後、裏切られたような、複雑な感情をもってさらに互いの心は離反していってしまうのではないか、とそう思うのである。

まあともかくですな、これだけしつこくやったらたいがいの人はおやまあ、とかあれまあ、と言ってヒイテしまうと思うんだけれど、実際、実体はどうなのであろうか。
果たして日本人の何割が流行につられて韓国に出かけたり、何たらの恋というドラマのDVDをセットで買ってしまったりしてしまっているのであろうか。
そこのところは近所にそういう人間がいないからなんともいえないのが残念である。
このいかにも作っちゃいました的な流行はどこから来ているのかというとやはりキタ朝鮮政策を抜きにしては考えられないのではないかと個人的には想像される。
日本の黒幕的な人々、経済中枢的な人々もようやく韓国と仲良くする戦略的な必要性と正しさを感じ始めた感があるのである。
そしてこの遅蒔きの場当たり的戦略はまたあるべくして失敗して、日本の隣国交友・外交的迷走はいつまでも線路のように、そして全対象パラレルに続いていくのである。





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