海洋空間壊死家族2



第47回

植樹   2004.5.14



ある田舎の山の奥
人も通らぬ峠のみちのはたに
鬼瘤の木を植えん

世の中がこの山と異なる緑に覆われて
鬼瘤の木肌は歓喜に満ちた照り返しを光らす
この山は鬼瘤の木でなければ
すべて鬼瘤の樹勢の絡みつき拗り倒すところとならん
鬼瘤の花はらんらんとまわるように散って
やがて黒き空に綿毛の種子を浮かべとばさん



このあいだとうとう植樹祭なる催しを覗いてきてしまった。
何となく予想はしていたけれど行ってみるといかにもいかにもの「地域の人々と交流を深めて、そんでもっていろんな意見をうかがってですな、ま何かあったときはそのほれ、ですから次の選挙もどうぞよろしくよろしく」的な下心まる見えの赤い舌ちろちろの地域周辺議員連盟が「おれがおれが」とおしあいへしあい集っていた。
なんでこんなところに入り込んでしまったかというと、幼稚園児童たる我が娘が、何やら「このたび貴殿の絵画が入選しました・・」というあやしい手紙を幼稚園を通じていただいて、そうすると特に母親というのは、んまあ!うちの〇〇ちゃんがご招待されちゃったザマス、なに着てこうかしらうろうろ、この服に合うクツがないざんしょおろおろ・・というふうに作られているから、父親としてはうんうん・・と適当に返事しながらついてくしかないのであるが、まあそれよりなにより、何か子供が賞をもらったら、その表彰主体がなんであれ、それは形だけでも喜んでやらなくちゃカッコつかないというご両親の弱みをちゃんと知っていてこのようなものを送り付けてくる周到さにホント感心を通り越した感慨を持ってしまうくらいの深謀遠慮なのである。
できればその手管を行政改革にも振り向けてほしいというのははかなくもむなしい希いなのである。
ともかくその手口というのか語り口はあやしさに満ちていて、「あなたは当選しました!」とか、「あなたは選ばれました!」なんぞというキャッチセールスやあきらかにオカシイ通信販売にも似たあさましい手法で人を呼びつけ、業界的にいうとここで高級羽毛蒲団を売りつけなければならないのであるが、今回は特別に「緑」と「子供」と「文化」という誰も非難しようのない黄金の三点セットをお付けして、選挙対象民にご奉仕しようと躍起になっているのである。

これまで極力、さういう行政政党関連の集いや思想には近づかないようにしていたのだけれど、きゃつらは既に私のような能動的批判勢力、デカダン連邦にまで手を伸ばして、巧妙にその接触面積の拡大と邂逅機会の増殖を謀っているのである。
植樹祭というのは、行ってみて初めてわかったのだけれど、「街の緑を増やす会」みたいな市民団体が主催で、それが日曜日の小学校を借り切って、その庭やらに植木を植えて花でも咲かせましょうか、ま、まずは一杯、おっとっと・・という仕組みの催しである。
もちろん会場脇ではやきそばを売っているし、植木屋がいろんな花や木の苗を並べててぐすねひいて待っているのである。
だから客観的に見ると、植物をテーマにしたブッパン会場のように見えなくもなく、到着したご一行首領(ワタクシね)の顔はすぐさま顔面神経痛気味にひきつって、さらに砂漠のように殺風景な学校の校庭から巻き起こる砂の風がわが心をふきすさましていくのであった。
そしてその会の代表(どう見ても市会議員)のたまわく、「最近ではなかなか木を植える場所を探すのもしんどい」んだそうである。
まあ確かに最近街じゃどこもアスファルトとコンクリで塗り固められて、学校の校庭くらいしか地べた出てるとこないもんな。
さらにその校庭も水捌けがよろしくなるようにどこか知らない土地からダンプで砂と土を持ってきて砂遊びした結果カタイカタイ校庭になっているからそりゃ木植えるところ探すのも一苦労であろう。
緑を増やす会は、そういう都会のアスファルトの隙間に、「値段の張る木」を植樹することにばかり気がいっていて、どんどん切り取られていく山の木や削られていく山肌なんかはどうでもいいのであろう。

ちなみにせっかくなので、その「入賞」した幼稚園児の絵を100枚くらい鑑賞してきたけれど、最近の幼稚園児の書く絵つうのはおもしろくないね。
まず上下左右の感覚がしっかりしすぎている。
昔の幼児の書く絵っつったら、コロニーサイドセブンのような、見てるとクラクラしてくるような、非常識に満ちた楽しい絵が多かったのであるが、今の子は常識と悪意に満ちた、CTスキャナーのような、理屈と道理と科学的視点を持った、ありきたりのリアリズムから見た絵を描いてすっきりしているようなのである。
そして同じ幼稚園の児童の作品はすぐわかる、つまり、幼稚園ごとにみんな同じような絵を描いているのである。
花を書くというテーマがあるというのはわかるが、その花の形と、クレヨン絵の具などの具材、色までがすべて同じで、見ていて、気持ち悪い。
おそらく、こういう絵を描きましょうというお手本が示されて、それをみんなで真似して書いて、はいこれが一番似ていました・・という訓練をこんな小さいときからやっているわけである。
それはうちの娘の担任の先生の話などからもうっすらと判明する。
私が保育施設に行っていたときは「みんなで」絵を描くなんてことはなかった気がする。
みんなでしたのはお弁当の挨拶と、紙芝居を読んでもらうのと、お遊戯会、運動会の練習くらいで、あとはネンドやる奴はネンドしてるし、外で遊んでる奴はずっと外で雲梯をしていた。
時間を区切ってこれを仕上げるとか、いつまでにこれができるようになる、なんて時限的指導的学術発想はどこにもなかったのである。
今回この絵画集落を見て、うちの娘の行ってるところが特殊ではないことが判明したが、そういう課題と学習という、子供を箱に押し込めるような、型を押すようなことはもっと大きくなってからにして頂ー戴!と思うのが正直なところである。
そういう鋳型タイプの人間てろくなものにならない気がするのである。
どちらにしろ、この植樹祭に出品されている大量の絵は、そういう意味で「絵」というよりは「模様」というにふさわしい、友達100人総白痴曼陀羅となっていたのである。
ま、親だからやはりうちの娘が書いたオイモが一番うまそうじゃったけんどな。

子供の手前、しばらく議員どもの「ご挨拶」を座って聞いていたけれど、そのNHKもびっくりの出来レース的なイベントのあまりのつまらなさに子供も私も退屈してしまって、多動性障害児のように、あるいはミミズクのようにグイーングイーン・キョロキョロとしていると、視線上方になにやらうごめくものが見えた。
それは会場でアホのように大量に配られて、煙となんとかのたとえの通りどんどん上空へと放たれていく風船の群れであった。
そのゴム風船の群れも、やがて山や川に落ちて自然と自然動物を苦しめていくのだろうな・・と思うとなんだかむなしさを通り越して悲しくなってきた。
私は子供と2人で所在なく風船を目で追い、空の遠さと青色にまぶしくて涙が出るくらいまでずうーっと見つめていた。
記念品のビニール入り土くれとスコップセット、ベゴニアふたカップ贈呈というのがこの会合の心の貧しさすべてを物語っているのである。





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