海洋空間壊死家族2



第50回

変態   2004.6.19



おからとぬかで塗りかためた
全身がついに悶え動きはじめる
たましいと物質のたくわえられたこのからだが
保湿塑像によってさらなる進化を遂げて
ATPの燃焼とコメツキムシの跳躍の原理で
瞬間移動にも似た論理飛躍を巻き起こす
そしてあなたが横にいたうん十年前の追憶に
情景はめくるめく蘇って
わが蛹の殻はうっすらと細目をあけて息吹きはじむる



引き続き化粧の話題で恐縮であるが、化粧の本質って一体なんなんだろうか。
まあ、そこはほれ、各個人、各世代、文化間の価値観の違いというものがガンジス河のように広く、深く横たわっているから、なかなかに統一的見解や哲学が語られるということもないのであろうが、社会的外部環境に出てくる人、特に女の人って、どんなジェンダータイプでも必ず化粧をしている、農作業に出るおばあちゃんまで化粧をしている、というくらいに必ず化粧をしている、というところが、その底流を流れるおおもとの原理(=化粧必着原理主義)というものを感じさせずにはいられない。
そしてそこまで意固地になって化粧をする、というのはやはり何か女の人の思想や思考やその他もろもろの細胞レベルでの欲望が「化粧」という形をとって噴き出していて、それは一つの根本的結晶となって我々の前に顕現するというふうにできているのではないか、とまあこう想像するのである。

違う種族の人間であるかのような男女の隔絶はいまさらながら言うまでもないのであるが、その化粧する女の人の心情というものも、同じ理由でかさあらずや、想像できない、また、いくら訊いても推し量ることはできない。
例えばうちの奥さんにインタビューを試みたのであるが、訊いたヒトが悪かったのかそれとも女の心として男なんかにしゃべってなるものか、しゃべったってわかるまい、それ以上に隠し通さなければいけない秘密の襞がそこにあるのか、なかなかに要領をえない。
いわく、見るヒト、会うヒトに悪い、とか失礼にあたるとか、社会的儀礼だとか、なんだか上っ面の答えしか返ってこないのである。
そういうパンチラ的な見えそうで見えない、今日はここまでよ的なおコンジョないいかたがさらに手前どものつきあげるような探究心をくすぐるようにできている。
いったい化粧をすることによって女のヒトは何を獲得し、また何を隠匿しているのであろうか。

まず男の側の予測的該当要件として、醜悪さを秘匿する、簡単にいうと、顔面の不細工をごまかす、というところがあげられる。
とくに最近の若い女性というのは、物質の力、つまり化粧材料やシステムの高度化によって、どんな不細工でも、ある程度のプロトタイプに合わせて、顔面再構築できるようになっているから、そのマニュアルにしたがって化粧していくと、一種のプラモデルのように、たい焼きのように型押し的女性が量産されるようにできている。
よほどの人類工学的、人類骨格学的な悪例でないかぎり、それなりに見れるようにできてしまうのである。
そしてその第一義的要件から派生する、想像できる女性精神としては、自分の美的センス、自分それ自体のスカルプチャーを信じるあまり、その裏返し的に自分の本質から離れたところに自分を持っていきたいという回避行動的衝動が考えられる。
人間誰でも自分が一番かわいいし、自分が一番正しいし、自分が一番優れていると思っている。
しかしその基本方針をあらわにする、あるいは突き進むことに危険、恐れ、それは自分が優れているという思い込みの本質が、何かしらの外部要件によって傷つけられるという恐れ、を感じるために、機先を制する形で、道化たり、自らを否定したりしてその最悪の事態を防ごうとしているのが日々の営みの実体である。
そういう自己防衛本能が強く現れているのが化粧である、という考え方も一理あるのではないか。
自分から離れて、遠くへ遠くへ、という願望が一人歩きしだすと、なんだか特異な習俗、祭りにおけるおかめ、ひょっとこ、ナマハゲ、ヤマンバ的な特殊メイクへとエスカレートしていくのである。

その一方で、自分を隠すという意識はさらさらなくて、逆に自分が1とすると化粧によって2にも3にもなるとかたくなに信じている累進的化粧美学な人々というのも確かに存在して、その人の本質はアーティストである。
そのアート至上主義的な、アート引っ越しセンターな思考はまさに芸術家のそれであり、つまりそれは功名心や、虚栄心のあらわれというものにまったく近い。
最近はこのタイプの女性が増えているのではないか。
あの電車内で化粧をする人間というのは、もう自分のコアな部分を守るとか、ヤマト撫子としての外聞や社会とのつながりというものよりも、その絶対的感覚としての美学を高めていく過程を大切にしているようにしか見えないわけである。

そして第三にこれは一番日本的な考え方ではあるが、その周囲の人間が化粧をしているから、私だけしないのもなんか変だし、化粧しなくても見れると思っていると思われるのがイヤ、というような、なかなか心理的にも文法的にも複雑な、ザクザクおーざっくな純和風のドウじて和せずの傾向である。
このタイプの特徴として、あくまで周りの人間に合わせて、波風たたぬようにたたぬようにと追従するが実際にはまったく心からの融和がないというところがある。
たとえば、そのグループ内会話は表面上はスムーズに滑らかに進行しているように聞こえるが、その内容はまったく意味が通じていなくて、その「会話する」という行為だけがその空間内で共有・継続されている、というような、つまりいかにもオバチャン的な、いかにもヤマト撫子的な、社会通念がまかり通っているということがある。
「ホントあの 課長ってなんでも丸投げでいてもいなくても同じなんだよねー」
「そうそう、昨日なんか目の前で楊枝を隠さないで使ってホントあったまきたー」
「うんうん今度一度部長にその書類見せてやろっカナーとおもってー」
というふうに表面上は妙な具合に話は続いてるんだけど、意味はまったく通っていない、しかも本人たちはまったく意に介せず、険悪にもならず、ホントあの  課長って駄目よねーという結論で丸く話が納まっていくというのが聴いていて不思議なのである。
そういう「一緒に話をしている」という安心感だけで時間を共有できる、別にその会話自体に行き着くべきゴールや話題の結論というものがなくても時間が進んでいくという人々にとって、周囲の人間と同じことをしている、同じシチュエーション、同じ文化レベルを共有している、同じ化粧をしている、というのはまったく草食動物にも通じる安心感をもって彼ら彼女らの心をひたひたと満たしめているわけである。
そしてこの原因こそが、まさに女のヒトの「化粧」の主たるゆえんではないか、と思うのは、そういう心情って男にはあまりない、そして化粧をしたい、という男というのはあまりおらず、いたとしてもやはり同じ社会現象を共有してつるんでべたべたしている男どもにその傾向が見られるというところにある。
化粧をしている男、というのは必ず何人かで固まってバンド活動をしているか、何人かで固まって地べたに座り込んでいるのである。

そういえばそのむかし白塗りのまがまがしい化粧でバンド活動をしたことがあったけど、やはりあれは一人でやってもそれほど楽しくはなくて、みんなでやってみんなで気持ち悪がられるというところにその醍醐味があったようである。





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