海洋空間壊死家族2



第51回

尻隹   2004.7.2



阿鼻叫喚
鴈蔓旦
左袒
鍛楠點
梨齬簾
覇盈瘤團
麻疹
耶蘇会館
癩怨
猥咽
云麝雌那



このあいだしりとりをした。
深読ミストの人に説明しとくと、そういう古代呪術的儀式でもないし、不純性体育会系のあそびでもないですぜ。
あのフツーの、順番に言葉尻をとらえていく言葉遊びの一種である。
以前、「明け方に、太鼓が大音声で響く夢を見て『きええ』と恐ろしくて目が覚めた」というような話をしたら、子供ができたのか?といぶかってきた友人がいるくらいだから、こういうところは気をつけなくてはならないのだ。
さらに、ああ、子供相手に怠惰で平和な横綱相撲をやったんだなと思った人も間違い。
歴とした(こんなことしてる時点でそうでもないけど)大人と激しい鍔ぜりあいの言葉のバトルをくりひろげたのである。
まあ、しりとりなんてやってるうちにどうでもよくなって最後は誰が勝ちか誰が負けかなんて不明確なまま、場外乱闘とパイプ椅子と栓抜きとザ・シークとキラー・カーンと脱力感がドタバタ的にないまぜになって、また来週ご一緒に楽しみましょう!なんていう金曜8時のプロレス中継みたいなもんだから、そんなに本気になってやってるヒトというのもめづらしいとは思うけど、実際、やると決めたらとことん方式でやってみると、なかなか奥の深い、というか、思ったより言葉のとどのつまりの奥底は透明に澄みとおって、つまり、日本語の数というのは限られていて、その言葉尻の応酬の滞り方はなかなかに脳の深耕を促すものである。

まずことの初めはまさにありがちな、まさに単純な子供のお遊びであった。
実家までの帰省をJRとJHの策謀により高速道路を使って自動車で帰ることを余儀なくされている私は、好きか嫌いかはともかく、車をぶっ飛ばして片道延々600キロの孤独な運転をこなしているのである。
ただし運転は孤独だけれど、「おまけ」はコオイムシの様に必ずついてきているから、つまり車内はファミリーな雰囲気と吐息に満ちあふれた高速移動空間となっている。
このとき彼らが無党派層と同じく「寝ててくれればいい」んだけれど、そういう幸せな時間というものは刹那に過ぎなくて、圧倒的に4人の魂はうつつワールドに浮遊している。
そして北関東のカタ田舎まで車で帰るという、まっとうな人間にあるまじき疲労と徒労のマタ旅は、子供にとって苦痛以外のなにものでもなく、特に高速道路って車外の風景が退屈なようで、最初の10分で「まだつかなーい?」という早期決着当然型の驚きといらだちの顛末を迎えることとなる。
つまり大人では考えられないほどの非情な嘆きと喚きをもって車内の緊迫感はいや増していくから、そこで考えられるただ一つの解決方法は言葉遊びによる暇潰しへとことと次第は急速に収斂していく様相を見せるのである。
具体的には「ウタを歌う」か、「しりとり」をするしかないのである。

そしてそういう状況の中、しりとりは始まった。
最初は優しかったんですけどーという何かの相談番組のスリガラス音声を変えてありマス人間のように、始めは鷹揚な子供のお遊びとして出発した輪番式しりとりが、そのうち子供は自然に脱落して親同士の壮絶な、互いのプライドをかけた、血を血であらう三里塚闘争に発展するのに時間はかからなかった。
車内は以前よりも張りつめた糸が張り巡らされて、単純な構図として2人のオトナのしりとりへと遷化してくるのである。
そしてその変遷する前後での私の意識としての優位性にはなんら変化もなかったというのは特筆に値する。
けだし、コドモとしりとりするのも奥さんとしりとりするのも大差ないと思っていたのである。
だいたい、私は自分の配偶者というものを、さらには世の中のヒト、というものを馬鹿にしくさってるから、私の言語能力と知能と知識に対してこやつらめが何の理由を以て私に勝てるのであらうか、つまりは負けるわけない、とたかをくくっていた。
繰り出す単語の数で負けるはずがない。
しかしいざ続けていると、この人は何を言っているのであろうか、さらには、本当にこんな言葉があるのであろうか、という意味不明の単語が歴出して、思うところがあったというのが今回の趣旨である。
うちの奥さんは食べ物と音楽に対しての造詣が深いというのが今回改めて判明した事実であったのである。
ただの食いしん坊で甘きゃいいんだろ・・と思っていたけれど、実際にはなんだかよく分からない横文字のパティシエだかソムリエだかの名前や有名店の名前がすらすらと出てきて、私を苦しめたのである。
そして音楽、特にクラッシックな音楽専門用語、というものも多々あって、そういう権威的な厳かな言葉に弱い日本人の一人として、そうかそうか、と分かったようなフリをしながら、しかし分からないまましりとり続けていたのは今考えると良くない行為であった気はするな。
思うに、人間の知覚する範囲というのはその人間それぞれによっての差はあまりないのではないか、ということである。
自分があまりにいろんなことを知っていて、あまりにいろんなことを感覚している、と思うのは人類皆一緒で、ほかのヒトが無知蒙昧に見えるというのは、ある程度の強弱はあるにせよ、その興味の広さと深さの客観的基準に照らせば大差ないのではあるまいか。
ある分野に造形の深い人物も、ある事象についてはまったく一般的常識以下のことしか知らなかったり、まったく有象無象の人物がある出来事についてのディテイルに異常の執着を見せたりする。
サーチライトの目がどんなに広く森羅万象を捕らえていたとしても、その照らされる範囲・面積というものの主体による差異というものはそれほどないような気がしてきたのである。
いわば、このしりとりによって自信喪失にも近い感覚を味わったのである。

しりとりでどの「しり」がしんどいか、というのは経験的に「ら」行が難しいというのは分かるけれど、今回延々長々8時間ほどしてみて分かったのは、「う」と「る」がくせものであるということである。
そして大人のしりとりのイヤラシサは、そのしんどくなってきたしりに集中砲火的にしり浴びせするというオゾマシクもタクマシイ攻撃方法をとる、というところにあるのであるが、実際、そのしりとりが終焉を迎えるのもワガ「る」攻撃による奥さんの自爆なのであった。
「かるふーる」「みるふる」などの、たび重なる私の「る」攻撃に対して、なんだかよく分からない外国単語を連発した後、ドイツ語の「ルフト〜」シリーズを思いついた彼女は、ルフトハンザから初めて、そのルフトのつく言葉を頭で次々と構築し始めたのであるが、その構築する行為そのものに必死になったため、「ルフトバーン」と素で言ってしまい、そのまま負けになるという情けない幕引きになったのである。
しりとりで大のオトナが「ん」で終わってしまう、という事態を私は生まれて初めてみたのであるが、まあ、こういうことでもない限りしりとりなんて一生終わりませんわ。

今回のしりとりの教訓的感覚としては、子供とかけっこして本気を出してしまうような冷や汗感覚といったらわかりやすいだろうか。
鼻にもかけなかった相手が想像以上の力を出してくる、鼠にかじられる猫のような気持ちである。
侮ってはいかんな。
なにはともあれ結局最後に勝ったのは私であった。
というのはよかった。
たぶんあれで自分が負けてたら、くやしくてくやしくて、しりとり関連の本を読み漁ったり、パソコンでそういうソフト(どういうソフトだ)を購入、密かに訓練したりしてしまうちょっとファナティックなおじさんになってしまうところであった。
つうか今ここでこうして息してないと思うな。
さっき台風情報見ながら、「まだ940ミリバールもあるぜ!」と話しかけると「?」な反応なので、「あ、いや、940ヘクトパスカルや」と言い直してもさらに「???」という反応なのを見て、こんな人間と本気でしりとりしてしまった私という人物にいまさらながら恐懼と戦慄と、軽い絶望を感じる汗ばむ夕べなのであった。





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