海洋空間壊死家族2



第52回

イヨマンテ   2004.7.20



黒き山に赭濁したる月ひとつ
濡れ光るいらかのささなみごとに
ちらちらといくつも魂ひかりたる

おもひ遂げず失せたる亡者の目の
光しらずゆきにける嬰児のなきごえの
地を這うごとく山間の平野そうめつくし
うらめしく空におしこめられ
サヌカイトひびかせる

蒼き稜線に血潮の月のころがりたる



このあいだ偶然が重なって『丹下左膳』を見た。
その雲母のごとき偶然を並べ立てればまず。

偶然その1
 8時過ぎという中途半端な時間に仕事から帰ってきたので、「酒飲みながら子供と戯れるお父さん」をしなくてよかったこと


ゆんべ早くに帰宅するとまだ子供が起きているから、それとつきあってごろごろどりゃあ!というレッドキングやテレスドンのようなジオラマが家庭において繰り広げられる。
とくに酒飲みの飯はスピードが遅いから、早く食べ終えた子供といっしょに、ちびちびと酒飲みながら見るも無惨な酔っ払い談話を繰り広げるのはワガ家系においては常識であるので、ウソや下ネタのちりばめられためくるめく幻想の遊園地がそこに現出する。
そうやってこうして、つまりそうこうしていると他のことをするひまというのはまったくといっていいほどないわけである。
それとは逆に、子らの寝静まった夜遅くに帰ると、今度は子供を寝かしつけ終えた奥さんが目をらんらんとかかやかせて手ぐすねひいて待ってるから他のことをするひまがない。
そういう繁忙状況の中、その中間地点(=8時過ぎ)に家へ帰ってくるとどうなるか。
そのAとBの二つの事実をあわせて逆説的に鑑みるに、つまり、そのAとBの狭間のはんぱな時間に帰ってくると、「子供にも奥さんにも相手にしてもらえない」という、ぽつねんとした孤独な時間というものが焼成二次形成されるのである。

偶然その2
 新聞のテレビ番組欄を見た


長女はよくテレビを見たし私もつきあってテレビを見て、特にNHK教育テレビというのは受信料も払ってないくせに毎朝欠かさず見ていたから、その頃現れた「むしまるQ」や「ピタゴラスイッチ」や「えいごりあん」なんてのをほぼ能動的にチェックしていた。
しかし今度産まれた長男はどういうわけかテレビを一切見ないタイプなので、それにつられて私もテレビを見なくなってしまった。
いきおいテレビ欄てのもただのタテ縞の無用の模様になってしまって、近頃は見向きもしなかったんだけど、このたび帰宅後酒飲みながら気づくと、子供にも奥さんにも見捨てられていて、ある朝起きたら家族みんなが出かけてしまっていて取り残された日曜日の朝11時のオトウサンのような寂しさとともに、ふとテレビ欄を目で追ってしまったのだ。

偶然その3
 『丹下左膳』放映日


これは当然なんだけど丁度その日に『丹下左膳』をやっていたのだな。
つつーっと追った目の先に『丹下左膳』。
にわかにくだすさしきの膳ということで、自然とテレビのスイッチに手が伸びるのも無理なきことなのであった。
ま、時代劇好きの、その辺に転がってる時代劇フリークとは年季も思い入れも違う私としては、久しぶりに見る『丹下左膳』というのはどないやろなあ・・とわくわくするお題であるのは間違いないのである。
えーなんだかまた振りが長くて大変なんだけど、とにかく偶然にして見た『丹下左膳』の感想というものをここに表したいのである。

まず丹下左膳が中村獅童という点については、まあ不可ではないという感じである。
中村獅童って最近売り出してるから其処比処で噂を聞くけど、見た感じちょっと横に太いので、あんまりかなと思ったらそうでもなかった。
太った左膳なんてたまんないもんな。
勝新じゃないんだから。
今度襲名した海老蔵なんかよりはよほどアウトローっぽくて、逆にはまっているといっても過言ではないのかも知れない。
そういえば左膳が茶髪だったよ。
そういえば左膳が片目だったよ、といわれても驚かないが、茶色い髪というのも何だかなあという感じである。
北野武の『座頭市』ってこんなノリなのかなと想像してるけど、そういう意味で、何か勘違いしてるヒトが混じっちゃってるという気はする。

最近の時代劇で配役を言い出したらきりないけど、どこからかの流しのアイドルやワケ分からないタレントが雰囲気を台なしにしているというのは言わずもがなである。
古くはヤックンが同心で立ち回り、今回はともさかりえがべらんめえ口調でヒタイに変なシワ寄せていいところで大活躍していました。
あと『仮面ライダー』から流れてきてるヒトというのが確実に増えてます。
わたなべいっけいもともさかりえと中村獅童の間で妙に浮いてしまっていましたな。
歌舞伎役者って独特の間があるから、ああいう素のしゃかりき劇団俳優とは合わないのである。
むかし勝小五郎と勝海舟の「親子鷹」を本当の親子歌舞伎役者がやってたのは息がピッタリ合ってたけど、そういう意味でやはり難しいものがある。
大杉漣、風間杜夫、麿赤兒、西田敏行・・と男性陣はビッグネームがそろってたけど絡みが悪くて一緒のストーリーを織りなしているようには見えない。
キリスト教会や幼稚園なんかに行くとよくある、婦人会手作りの下手なモザイク画や切り絵を見せられている感覚がした。

ここで早くも言ってしまうけど、これは脚本も脚本だけど、演出が悪すぎたのではないかというのがこの『丹下左膳』を見て思った第一のことである。
出てくる人々がちぐはぐというのはともかくですな、まず左膳そのもののキャラクターがいつでもハイテンションに誰かに怒っている、というのが納得いかない。
中村獅童が酒場に行っちゃあサケ持ってこい!と凄んだり、ともさかりえにぶっころすぞ!たたっきるぞ!と言ってみたり、いつでもどこでも怒っているのである。
こう、なんていうのか、低く流れる怒りが或るときドカンと爆発するような怒りというのが周波数としてもかっこいいのであって、あんなけいつでも怒ってると、ただの怒鳴り散らし上司やぶつぶつ一人怒りホームレスみたいでなんとも見ていてため息が出てくるのである。
茶髪の左膳が寝てるときだけ静かで、起きたあとは子供にも女にも周囲にのべつくまなく怒鳴り散らしているのを見ると、ほんとそこらの知恵の足りないヤンキーやおっさんみたいで、共感もへったくれもありゃしない。
パンクというのを意識してるんだろうけどそれはパンクじゃないですぜ。
最後エンディングテーマにブルーハーツの『僕の右手』(いいウタですな)を持ってきていたことからも左膳=パンク構想は想像つくけど、つまり左膳を江戸時代のパンクとして捉え直している、というのが今回の新機軸でありまたウリである、という感じなんである。
そして寄ってくるものをすべてどなって蹴散らしている左膳を見ていると明らかに「違う」という感嘆が生まれてくる。
たしかにパンクというものを定義したとき、「全てを否定すること」というのは古いイギリスの教材にも書いてあることだけれど、しかし、例えば自分より弱い抵抗できないものを虐げる、虫を殺すとか、年老いた母親を蹴り倒すとか、そういうことはパンクではないのである。
パンクにも大切に抱きしめているコアな一部分があるのである。
ここで今回の「丹下左膳」の内実を思ったときに、この時代劇の主導権をにぎるヒトが「パンク」も「時代劇」も理解していない、いや、もっというとそれらを「好きではない」という結論が導かれてくる気がする。
なんとなく、外国で時代劇が評価されて、国内でも和風というものが再評価されつつあり、狂言や歌舞伎が盛り上がってきているから、ここはいっちょもう一ぺんやっときますか吉田ちゃん!という感じで門外漢が時代劇のスタッフを召集してつくっちゃいました、という気配が濃厚に見えるのである。
たとえばロケの場所なんかも考えられていて、決して狭い感じには見えないし、殺陣も獅童君がうまいのか片手斬りの割にへんな斬られ「マ」がなくていい感じ、また、ちゃんとフィルムで撮っているようで画面も申し分ない。
そういうハードの部分は昔からの人を使ってイイ感じに仕上げているのであるが、何にしろソフトの部分がうわついてしまっている。
俺にもやらして、私にもやらして!という感じで、時代劇なんか今まで見たことも聞いたこともないような人物が、箔付けか、露出確保か、芋洗い式に画面内混雑を起こしている。
そのうえで、最近ミュージック・シーンにおいてちょっと復活したパンクというのを切り口に持ってきて、斬新でしょ、かっこいいでしょ!とスピッツのように口うるさく喧伝しているわけである。

売れ残りアイドルが侵入してくる前の、そして時代劇があまり人気がなかった頃の時代劇というのが一番面白かったなあと思うのである。
そこには時代劇を連綿と織りあげてきたスタッフと役者がいて、誰にも邪魔されることなく老人相手のマンネリパターンを毎週作っていればそれでよかったのである。
たとえば風間杜夫の『銭型平次』なんて評判悪くてすぐ終わっちゃったみたいだけど、あれはあれで変な横槍が入ってなくて最高におもしろかった。
時代劇が好きな人間が、低予算だけど好きなように作り込んでいて非常にレベルが高かったのである。
一方、こんどの左膳を見ていると、迎合的な、流行的な冬ソナやセカチュウの様な軽佻浮薄さを感じてしまう。
そしてそういうバブルな流れに身を置くと、得てして良くない意志に引っ張られてその文化は堕落して凋落するというのが歴史の教訓なのである。
時代劇はそういう歴史から学んでこそ時代劇なのではないか。
歴史小説と時代小説が違うように、時代劇制作は歴史を知らないということか。





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