海洋空間壊死家族2



第54回

現人神   2004.8.13



ヒトの貌なれど
五体の身躯なれど
精神こそ崇高なれ

あさましけれど
貧しく卑しく貪ぼれど
天界に財らぞ積む

盗めど
殺せど
鑑定せば清らかなり

われあらひとかみなり



がちゃがちゃという玩具があって、別名がちゃぽんともいうけれど、100円玉入れてぎゅりぎゅらっと右にレバーを回転させると小気味よい音とともにおもちゃの入ったカプセルが出てくるあれね、あれで自分の予測的意思と異なる当ての外れたものが出てきたとしてもそれに対して文句を言う奴はいない。
それは何が出てくるのか決まっていない、分からない、という全人民代表議会における普遍的かつ常識的コンセンサスがあるからこそ、店にえらい勢いで駆け込んで怒鳴り散らしたりする者がない、というふうにそうなっているのである。
しかし例えばこれが自動販売機の缶ジュースだったらまったく人々の反応は違う。
リアルゴールドを飲もうとしてスイッチボタンを押したらお汁粉の、それも冷えたのが出てきた!なんて事実があるわけないけれど、そんなことが起こったらそのオジちゃんはまったくリアルゴールドを飲むことによるパワーアップ度の数倍の勢いでいきり立ち絶叫怒髪天を衝く、ファイトいっぱあぁつ!(会社が違うようだけど)という状況へと事態は急展開していくのはまず間違いない。
さらにいうと、ジョイントロボフーセンガムを買っておまけが前回買ったのと一緒でも怒る子供はいないが、ビッグワンガムで覗き小穴を覗いて、エイブラムス戦車を買ったつもりが自衛隊61式だった時、その幼児の穏やかな天使の笑顔はグレムリンもオーメンもびっくりの退廃的悪魔思想に満ちた必殺の形相へと早変わりするに違いない。
つまり何が言いたいかというと、そのラベリングされた表示というものと、内実が違ったとき、あるいは確信的想像を裏切られたパッケージを手にしたとき、人間という生き物はナトリウムもマグネシウムもびっくりのすさまじい過剰反応をさらけだすということである。
そしてそういう事実と真実を知ってか知らずか、意図的にか意図せざるか、まったく人を食ったような、表示と内実をシャッフルして訳分からなくして世の中を平然と闊歩している連中が存在するのである。
たとえば、いのいちばんに真っ当であるべき商業販売の場でもそれは現出する。

うちは禁治産者が一人いるので買い物関係、ひいては家庭内予算編成、執行は私が行なっている。
家計簿をつけているというとなんだか私の厳かで優雅なクラッシックイメージが崩れてしまうようで気がひけるけれど、実際つけてみるとおもしろいもので2年前の同月の光熱費なんてのを見ていると、それで何がどうなるということもないのだがなんとも満ち足りた感情が押し寄せてくる。
結果、スーパーに買い物に行って今日はなにが安いカナー・・なんて主婦の密やかな楽しみを抱えて暮らしているので、ものの値段、物価というものを日本社会における消費者代表程度に分かっているのである。
そして、そういう消費の現場緊急24時のような場所の至るところで最近増えてきたなーと思うのが、ヒトをコバカにした、一言でいうと、セコイ、に尽きる各メーカーのめくらましである。
たとえばティッシュペーパー。
いままでの日本社会におけるJIS規格(知りませんけど)では1ケース2枚重ね×200枚=実質400枚ベースが基準であった。
しかし最近では1ケース2枚重ね×150枚=実質300枚という商品が出てきている。
別にそれはそれでいいではないのと思う向きもあろうが、しかし問題は購入主体のオブジェクションである。
あきらかに400枚ベースでの基準で「あらー安いじゃないのー!」と言いながら手にとっていくオバちゃんがおる。
400枚で250円であったものが300枚で200円で売っているとする。
これを安くなったと考えるかどうかは個人個人の問題であろうが、私のような思いやりのある親切な人間は純粋に、よくない!と思うのである。
似たような例にラップがある。
ドモリうたでも超常現象でもない、あの透明なピッと張ってパッと冷蔵庫へ!のあのラップね。
あれも今まで20メートルで売っていたものを15メートルにして、実質的には値上げしているのを総額では減っているから安くなっています、というような詐欺が平然と行なわれているのである。
さらにいうとマーガリンやらウドンやら、そういう地味なところでも、今まで200グラム50円で売っていたのを180グラム50円で売って差し引き20グラム×10個=200グラムが射出成形されて、つまりもう一つ余計に売れるから売り上げは1割増しでえす、というような恐ろしい計画がすでにして実行段階に入っているのである。
そういう瞞着にまみれたぬらぬたの欺瞞の腐れ外道は、ワタシ決して正義漢ではないけれど、どうしても許すことはできない。
恥ずかしいのを我慢して、あらっ!これヤーネー・・などと付近に生息活動するオバちゃんなどに気づかせようと啓発活動に勤しんでいるのである。
だいたいうちの母親や、奥さんも含めて、ものの値段というものをまったく理解せずに消費活動しているヒト、オバちゃんというのがあまりに多い気がするのである。
たいがいその日に買ってきたものくらいは例えば靴がいくらとか、シャツがいくらとか、そういうのは覚えているのが普通だと思うのであるが、彼女らは冗談ではなく、痴呆症かというくらい何も覚えていない。
友達とおいしいご飯を食べてきた、というからいくらした?と聞いてみると、分からない・・という。
こっちはそれを詰問して反省会を開くという趣旨ではないから、ちょっと思い出してえな、といっても本当に覚えていない。
同じように駐車場代をいくら払ったかとか、電車代がいくらだったとか、医者に行っていくらかかったか、とか本当に覚えていないのである。
そこにはお金を使った、という簡単な事実があるだけで、幼稚園児のような百億万円というような出鱈目の、ごっこ感覚でマネーの移動が起こっている。
だからうちの家計簿は毎月使い途のよく分からない機密費のような予算が出て残高調整処理のマイナスが膨らんでくる。
こういう人間に一家の財布を預からせておくといつになっても通帳残高はゼロのままということになるから気をつけなくてはならないのである。
お金を持つとすべて使い切るように使うヒトと、必要なものをその範囲で買って残りは次に回すというヒトがいて、どちらが優れているのかは長期的に見れば一言ではいえないが、家計を預かるワタシとしては後者でなければならないと強く自戒して生きているのである。

不当表示といえばついこのあいだ、風呂に入っていて、あまりのことにあきれ驚き、そして最後は笑ってしまった。
最近の風呂にはいろんなポンプ式容器が置いてありますな。
今では体を洗う石鹸さえもボディーシャンプー、ボディーソープなどと申してポンプ流出液体を泡立てて使うのが主流のようなのだが、実際あれって妙な界面活性感があって洗い上がりがさっぱりしない気がするので私は嫌いだな。
で、今回のはなんだか使っていていつも以上にぬめぬめするボデシャン(?)だな、などと思いながらしばらく使っていたのだが、あるとき、それが頭髪用シャンプーだということが判明して、あまりのことにしばし呆然、気を取り直し容器群を調べたところなんとボディーソープの器にはシャンプーが、シャンプーの器にはリンスが、リンスの器にボディーソープ液が、まるでハカったような三すくみでまったく異なる容器にまったく異なる内容物がそれぞれ闖入していたのである。
以前実家で5個くらい並んだポンプから選んだボデシャンが犬用だった、というのよりたちが悪い。
前の時はよくみりゃ犬の絵が書いてあったのだ、が、今回のは見れば見るほど、指差し確認すればするほど累進的に間違うようにできているのである。
そして「なしてこっただことに・・?」と主犯格に聞いてみると、入れ替えるとき一度入れるのを間違えてそれが玉突き式にすべて違うものが入ってしまったそうなのだ。
しかし、思うに、それはそれで一言いってくれるべきだと思うのであるが、曰く、一回言ったと思うけど・・。
私は家ではほぼいつも酔っ払ってるから、言った言ってないという論議は意味がなく、なんとも反論のしようがないのである。
つまり、奥さんは二次確信犯的にやっていて、家族はシャンプーの容器から石鹸を出して体を洗い、私だけが頭髪用シャンプーで体をこすっていたのである。
知らぬはワタシばかりなりけりという状況であったらしいのだ。
しかしそんな家ってほかにあるかしら。
想像してほしい、何が悲しくてわざわざボディシャンプーの器にシャンプー入れて使ってるのよ。
だいたいそういう3週間後には変わっているような、非普遍の代表のようなくだらないことって覚えるのが不得意であるから、それからも私はお風呂に入るたびにえーと・・これは何が入ってるのかな・・とよーく考えてからポンプを押していた。
そういう自分とそういう感覚がなんとも笑ってしまう(シニカルに)のである。
いってみれば、奥さん自体も不当表示というのか、外身と中身が違うというのか、何が入っているのか分からないというのか、つかみどころのない人間である。
そういう生き物の全相似型、DNA螺旋とアサガオの蔓が同じ方向に巻いていく、というような生物を通して貫く相似の特徴というものを、奥さんとシャンプーの容器に対して強く感じる夏の夜のシャワーなのであった。





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