海洋空間壊死家族2



第56回

レミーラ   2004.9.1




ティーラーティーラーティーラーリー
ティラリーティラティラティラリーティラリーラァー
ティラリラリラリラリラリラリラリ
ティラリラリラリラリラリラリラリ
ザッザッザッ
ティーーラァーティーーラァーティーーラァーリィーー
ティラァリィーティラァティラァティラァリィーーティラリィーーラァーー
ティラリィラリィラリィラリィラリィラリィラリ
ティラリィラリィラリィラリィラリィラリィラリ



うちに人間の男のコドモ(以下男の子)が来てからもう2年経つ。
人間の女のコドモ(以下女の子)が来てからは5年ほど経つが、それよりも濃い時間感覚が男の子との生活にはつきまとう。
一人目の女の子には申し訳ないけど、男のコドモと遊んでるほうが何倍も楽しくて何倍も有意義なのである。
男の子が生まれるずっと前から、近所のタイケン君という男の子が私の一番のお気に入りだったのだが、その頃から、どうも女の子より男の子のほうが楽しいぞ・・!と思っていたのだ。
これは男親、女親に共通するそれぞれ同性の子供に対するシンパシーかと思っていたらそうでもなくて、実際男の子というのは女親や、ジジババ、オジオバに選ばせても人気投票上位にくるようなのである(1位か2位しかないけど)。

その理由はバカだからというのが一般的である。
お利口さんて見ていてもまったくおもしろくないけど、バカなことをやってる人間を見るのはおもしろい。
出来杉君の生活が放送されずにのび太君の生活が毎週放送されているのはそういう理由である。
そして男の子というのは圧倒的に女の子よりバカである、というのは幼稚園やそこらの児童集団を見ていても、バカやって怒られてるのは男ばかりというところからも推察できるのだが、バブーンと言ってヒトや木や鉄のカタマリに突撃していく我が息子を見ているとホント心の底から「バカだなあー・・」という感慨が湧き起こってくる。
そしてさらにいうと、子供をダシに一緒になってバカなことをやるのはもっと面白いわけである。
ま、そんな一般論はともかく、まず基本として、男の子というのは「放っといてOK」というのがなんとも重要だ。
一人目の女の子は一緒に遊ぶと徹頭徹尾自分に注意が注がれていないと気がすまないので、非常に疲れるしそういう意味で遊ぶのに大きな決心がいる。
二人目の男の子はよっぽど眠いときやよっぽどこっちが無視しているとき以外は勝手に遊んで勝手にこちらに向かってくるので対処しやすい。
一人目(女の子)を、たとえば、見だしたら画面の前に2時間強は拘束される映画だとしたら、二人目(男の子)は話が切れ切れに5分ターンで続いていくサザエさんのような感じ。
何かしながら聞けるラヂオの様な感じにも似ている。
まったくドライでさっぱりとした人間関係は、はっきりいって大人になった今でも女の友達より男の友達のほうがすっきりするというところにつながっているようで面白い。
しかし何といっても、何倍も楽しい最大の原因は、同性であるから、というのがほぼ8割方であると思う。
やはり感情移入しやすいのである。
クルマや電車のおもちゃなぞを部屋の隅から隅まで転がしていなさるのを見ると、むかし自分がそうやって遊んだ記憶がたちまちフラッシュバックしてきてその頃の感情までが去来して心が深く耕され直す感覚がする。

「これーでん、おとーやんかったっちゅ」
 訳:この電車はお父さんが買ってくれたやつ

本当にうれしそうにこちらを見てそうしゃべる男の子を見て、ああそういえば初めておもちゃを買ってもらったときってこんな感じにうれしかったなあというのが思い出されてくる。
私の場合、確かあれは恐竜戦隊ポセイドンの戦車風探検車セットで、それまでうちにはお姉ちゃんのままごとセットやぬいぐるみしかなかったから、強烈にうれしかった。
しかも貧乏ヒマナシのその日暮らし、長屋生活の中だったから、つまり、他所からもらったとか、祖父母に買ってもらったのでなく、お父さんに新品を買ってもらったというのが誇らしくうれしかったのだ、ということが立ち返りひるがえって自分の子供の仕種からぐわーんぐわーんと思い出されてなんだかほほえましくも涙ぐましいのである。

話は変わってこの際ゆっておくと、急進的ジェンダーフリーの女性には悪いけれど、男と女というのは生まれながらにして埋めがたい性差がある。
当然といえば当然なんだけど、もっとコアな、あまりヒトに言えない程度の、排他的ファッショな意味でもそう思うのである。
例えば女らしいとか男らしいというのは社会や環境が作るなんて主張は真っ赤な嘘である。
自分でもそうだったけど、うちの男の子はぬいぐるみやままごとにはほぼ手を出さず、やはり乗物・機械関係にのめり込んでしまっている。
一人目の女の子がうちの家系の初孫で、同世代の友人の中でも初めての子供だったから、いろんなところからたくさんのおもちゃをもらってそりゃ大変なことになっているのだが、しかしその中からやはり女の子は女らしいものを選んで、男の子はいかにもというものを抜き選んでいくのを見るにつけて、心理構造や性格的方向性が男と女というもので類型的に分かれているのを感じる。
そしてその男女の類型の底流を流れる差というものが何か、ということにその二人の子供を見比べているうちに最近はっきりとした答えが見えてきた。
それは、男は「支配」女は「所有」を基本として生きている、というところである。
さっき出た話でいうと、女の子はお父さんを所有したがり、男の子は遊んでもらっている、という事実(支配感覚)で満足する。
何かおもちゃやらでも、女の子は今現在使ってなくてもあくまで自分が所有して、独占しておかないと気がすまないが、男の子は必要なければあっさりと貸し与えてその対象物で一緒に遊んだり、またはほかの興味へとスムーズに移行する。

ところで女性のマイナスの特徴って、突発の出来事や変則的事柄、パニックへの対処が弱い、というふうにまったくの独断で思うけれど、それはその「所有」感覚から生み出されているような気がするのである。
モノだけでなくコトやプロセスも独占的に所有したがるから「あそび」というものがなくなってくる。
ハンドルやブレーキにあそびのない車みたいなもんで、そりゃ張りつめるし余所見もできないし他のことができなくなるのは当然である。
地図を読めないというのもこの「所有」グセが原因である。
今まで付き合ってきた(変な意味でなく)女の人で、これは!と思ったような人でも、やはり誰一人として地図を読める人がいなかったというのは本当の話で、これはなぜなのか、というと、女の人は地図内情報を所有してしまうからである。
所有すると相対化しづらくなる。
地図を見るというのは自らを相対化する作業だからまったく反対方向の思考へ向かってしまっているのである。
具体的に言うと地図の中で女性は自分があっち向いたりこっち向いたりしてしまっているのであると思われる。
実際に自分が向いてる方向に地図をくるくる回してしまうヒトまで見たことあるけど、あれをやっちゃあおしまいなのである。

一方、男性のマイナスの特徴って、驕慢さや粗暴さ、重要なサインを見落とす鈍感などがあるけれど、それはやはりその類型的思考方向「支配」思考から生まれてきているのである。
言ってみれば支配というのは主観であって事実ではない場合がタタある。
思っていることの8割方は主観と反する事実関係を有するといっても過言ではあるまい。
たとえば、うちにあるスーパーファミコンはあるT君の所有物で、彼は私に貸していると思っているのであるが実際には私の持ち物として10年以上の月日が流れているのである。
ある友人は高校1年の時に貸してもらったディグダグをいまだ会うたびに「返せ!」とその貸し主に言われるというが、実際にはそのディグダグはすでにこの世から消えていたりするわけである。
また、8:29発普通電車の前から五両目、進行方向右側最前列の席はなんとなく私の指定席みたいなんだ、と思っていても、ある日座っているアホづらの中学生に文句一つ言えないのである。
支配していると思っていたが実は誤認だったというのはよくあることで毎日はその繰り返しで埋め尽くされていく。
具体的に一言でいえば、男は思い込みで生きているといっても過言ではないのである。
つまり、この講話(?)も男女の知覚構造を支配しているという主観をもとに書いているのであって、これを読んで怒り出す人もいまいとは思うけど、万が一そういう人はそういうことなので、ま、お気になさらぬように。





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