海洋空間壊死家族2



第59回

幻獣   2004.10.4




昆明の空より
異形のヒト舞い降りたり
金の雄牛の兜をかつぎ
黒々たる四肢に災いは爆発したり

見よ!迎える群集は
焦土と裂傷に打ち震え
歓喜の血飛沫を違いに垂らしめあう

山は神鳴りにしら光って
石の塊はその主を見失い
すべてのジンカンを排撃し殲滅する



去る8月暑日、えらく遅くなったけど豚丼を食べた。
狂った牛を食べると人間の脳も狂ってしまうという、タマゴが先かニワトリが先か・・の議論にも似た、不思議で失礼な(牛に対して)流行思想によってもたらされた、牛丼屋各社の苦渋の一策のあれね。
そもそも我ら人間が食べる物と様々な病気との相関関係なんつうものはある意味まったくわかっていないのであるから、なんのかんの言い出したら何も食べられなくなる気がするのである。
特にスーパーで売ってる野菜とか、近海で獲れた魚なんて、食べてる脇からあからさまに脳細胞が劣化する感覚があって、非常に危うい感じがするけど、そのあたりのことには皆で目をつぶって遠くの簡単なところから手をつけるというところがいかにも日本官僚民族的ではある。
狂牛が怖くて牛を食べない人間が、一方で青汁やクロレラを喜んで飲んでいるという事実が私には信じられないのである。
しかも最近では、羊が安全だからという理由で、羊の肉を食わすジンギスカン屋がはやったりしているようだけど、羊にもスクレイピーという本場イギリスの怖い脳の病気がある!という事実を業界の人々は隠していて、あとで問題にならんのかなー・・と他人事ながら心配しているのである、というのはまたどうでもいい話であるな。

さて、豚丼であるが、結論から先に言ってしまうと非常に美味しかった。
下手すると以前商っていた牛丼より美味しいのではないかと思ったくらいだ。
牛丼屋の説明によっても、その原価は牛丼より高くて利幅も薄いそうだから、単純には言えないけど、消費者は以前よりいいものを口にしているわけである。
たしかに原産国はともかく、バラ肉のいい所を使っているようで柔らかくて味もいい。
紅しょうがや七味唐辛子との相性も良くて、とくに牛丼の牛乳くささが少し鼻につく私としては豚丼こそどんぶりのベスト3(ほか親子丼、カツ丼)に入るにふさわしい美味しさを感じたのである。
しかしそれでも、世間一般の評価は「やっぱり以前の牛丼がいい!」という声が多いようで、各社の既存店売上などは前年を大幅に下回る辛い日々が続いているようなのだ。
一説には牛丼というGとyuの組み合わせが世の男性の耳や口にぴたっときている、つまりBとutaという単純な発音が既にして食べ物の食味そのもの以前に負けているという説もある。
まあどちらにしろ個人の好みの問題なのでどうこうも言えない問題ではある。

話は変わるけど、このあいだ久しぶりにファルコのロックミー・アマデウスを聞いた。
ラジオのいい所はこういう思いもかけない方向から思いもつかないものを送り届けてくれるところだな、うん。
それはともかく久しぶりに聞くと、昔かっこいいなあと思っていたファルコのラップが、まるで吃音の激しいポップ歌手、あるいはただ何かをのどに詰まらせてむせているおっさんのようで、思わず背中をさすってやりたくなってしまった。
最近のラップの技術が格段に進歩しているのか、それとも白人がラップという当時の興味本位の流行だったのか、どちらにしろあれあれあれれれ・・というずっこけ落胆的ながっくり感があったのである。
これは言ってみればよくある話しで、たとえば中学生の時好きだった女の子を今見てみると、その心の中の肖像と現実との乖離の激しさに、あの頃の私というものに対する不信と絶望で美的感覚のめまいにも似た喪失感と虚脱感が津波となって押し寄せてくる。
または、これ以上ない!と思っていた自家製特製コロッケパンを久しぶりに作って勇んで食べてみると、何の変哲もない味で、そうでもないな・・という尻すぼみの心の抑揚、つまり竜頭蛇尾の寂寥感がひしひしと迫ってくる。

人間という生き物に限らず、すべての生き物は毎日進歩している。
感受性というか心の受容体も日々「進歩」、百歩譲って「変化」を遂げているのは間違いない。
そして、以前の旧式の感受性が賞賛していた対象物をある日、変化した現在の感受性が受け止めたとき、それは落胆と諦念の悟りときであり、そしてまた対象物が過去の記憶としてセピア色に焼き直される運命のときでもある。
だからというのか、一方で、過去の「事象」、「出来事」などについてはそのコト本体に我々は遭遇することはないから、いつまでも輝き続ける可能性は高く、さらに言うと、美化され歪曲されてその出来事事実自体が進化変化していってしまっている場合が非常に多い。
女の子や食べもののような焼き直しの機会がないわけである。
同じ場面にいた人間の記憶がまちまちなのはこれによる。
それにひきかえ食べ物や人物、音楽や絵画、小説など、モノゴトのうちの「モノ」というものは日々の生活の中で絶対的隔離は不可能であるから、あらゆる場面で落胆・焼き直しの作業は行われ続ける。
いろいろな意味で、人間は積み上げたものを壊し、又積み上げて壊す、という作業を延々にし続けるよう定められた動物なのである。

さて、ここでまた豚丼に話は戻るが、関東人の私にとって「牛」の価値極大化関西思考自体が距離のあるものだし、そもそも牛丼が美化されていない、つまり以前の栄光を称揚していないからこそ、豚丼を素直に美味しいと思える。
牛丼も美味しいけど、京都のすき焼きなんか食べたら牛丼は少なからず色あせる。
逆にいうと牛丼以上の牛を食べていない、牛丼をセピア色に焼き直しする機会のなかった牛丼奉賛体制の人間が世間には多いということであろうか。
それとも単に事実から目をそむけている人間が多いだけなのか。
しかし、今後アホのアメリカ人の妥協によって狂牛の肉が解禁され、大騒ぎしての牛丼再提供のニュースの後、食べてみたら味自体は変らないのに以前の輝きは失われていて・・ということも大いにあるので世の牛丼ファンは要注意なのである。
今から牛丼以下の粗末な食事を心がけねばなるまい。
特に豚丼を何度も食べるのは避けてとおざくるべし。





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