海洋空間壊死家族2



第65回

老師   2004.12.11




臨江白髪三千丈
帰蛾走光自一年
徒過而東風来哉
客別逸日一万故
仰座一日於萬古
何食之在處応召



なんでも好き嫌いなく食べる方だけど、一人で昼飯食うのに何にしよっかなーという時にまず思い浮かべるのはラーメンであるというくらいにはラーメンが好きだ。
あの無性にしょっぱくて無性にアツアツのラーメンを食べると、前日の酒が残ってうぐうぐいってた胃腸方面も、気に食わない上司のあれこれにひくひくいっていた脳細胞関連もすべてスーっとなぎ払い平らかになっていくあのビオフェルミン感覚というのは、味噌汁かラーメンくらいでしか実現することは不可能なのではあるまいか。
何か辛いことや怒髪天を衝くといった緊急事態が起こった時、日本人が何を食べるのかといえばやはりラーメンを食べるのである。
間違ってもそういう時にアイスクリームを食べたり、天丼を食べたりはしないと思う。
煙の向こうにたゆたう、しょっぱくてあっついラーメンをずずずぅぅーっとすすってこそすすぎ流されていく邪念怨念というものが世の中にはきっとある。
そういう哲学的・宗教的食事対象ともいえるラーメンに関して、今回は論じて生きたいのである。

んで、これはどこそこのラーメンがうまい!とかなんとか、あるいは一年で800杯のラーメンを食って極まったラーメン味蕾によってそのラーメンの本質的違いを白日の下に披瀝したらん!というようなありがちな議論はともかくそっちの方に置いといて、ラーメンの「食い方」に関する考察を加えていきたい。
実際、日本のラーメンというのはある一定のレベルを極めてしまっていて、どこで食ってもひどい失敗はなく、「伸びていないアツアツのものを出す」という基本さえあればそれなりにうまいというのは周知の事実である。
この辺はお好み焼きやパンという業界にも通底していると思われるのだがまあその辺のことは深く追究すると異論反論が渦巻いてくるので脇に置いといて(だんだん散らかってきましたな)ここではラーメンの食い方という方法論そのものを考えていきたい。
別に作法というものがあるわけでもなく食い方も比較的自由であるべきだけれども、まあ見苦しくない程度の基本の形というものを知っておいても損はないと思うのである。


1.両手の処置
まずは形から入っていこう。
利き手はお箸を持つからその使い方は後で述べるとして、問題は箸を使っていない非利き手の処置問題である。
皆様ラーメンを食べる時どうしてますか。
結構悩んでいる人は多いでしょ。
かく言う私も理想の型を未だ模索しているところなのである。
結論を先に言うとドンブリの縁を軽くつまんでおいて頂きたい。
もちろん親指が上に来るように。
あるいは子供の見ていないところであれば、膝の上に置くというのも可能である。
素浪人風のアナーキーな風情の男が膝に手を乗せて肩をイカラセテ麺をすするという形はなかなかに決まるものなのである。
一方、レンゲを持って箸の補助としているというヒトもよく見かけるが、あれはあんまり誉められた食い方でない気がする。
見た目がザリガニの食事風景のようにみみっちく見えてしまう。
背中を丸めての水生甲殻類の食い方が似合うのはスパゲティやハンバーグなどの西洋風の食いもんであって中華や和風のものにはそういう隠微な食い方は似合わない。
さらに、してはいけない型としてテーブルのカドっこに手をパーの形にして押し付ける食い方がある。
前から見ると見栄をきる歌舞伎俳優、あるいは工事現場でストップ!って手を広げているヘルメットオジさん看板のような食い方ね。
あれもなんだかみっともない。
若いおネエちゃんなどの間ではこれが主流になりつつあるようであるが、今のうちにやめないと後で恥をかくことになる。
ラーメンという粛然たる赤提灯的食べ物に対して、おちゃめ!とか、きゃぴっ!とか、そういう目を背けたくなるほどの時代オクレ感を添えてしまっているというのが自分では見えないのであろうか。
なによりカッコ悪い。
ドラクエにでてくる敵キャラのようにグロテスクかつ滑稽パロディーな雰囲気がするのでこれからは禁止である。
ラーメンに対して失礼である。

2.箸の運び方
まずラーメンはすすって食べていただきたい。
私の知っているヒトで、ラーメンは言わずもがな、スパゲテイ、うどんまで全方位的麺類を必ず唇で、はむはむはむはむむむ・・と引き上げるようにしてちまちまと食べるヒトがいるけど、見ていてホントいらいらしてくる。
たしかに音はあまりしないので一見上品な雰囲気にも思えるが、ひとさく食べるのに1分は余裕でかかるから、全部食べきる頃にはラーメンは冷めきって伸びきっているのである。
あと、麺を途中で切らないというのも基本である。
よく一口口に入れては歯で食いちぎってしまい、最後の方になると麺というよりはベビースターふやかし澱粉のような切れ切れの食べ物に変化してしまっていて、食べきるのに苦労しているヒトがいるけど言語道断である。
そのような食い方にならないためにも箸の使い方は重要で、まず麺を適当な量(多すぎると途中で切る羽目になる)をサッとすくい、ずるずるーっと一気に口中に引き入れつつも、汁が飛び散らないように麺脚というのか、口から垂れ下がっている下部を支える、そして呼吸が続かなくなり口に入りきらなかった麺をまとめて放りこむというのが正しい箸の運び方である。

3.食べる順番
お待ちどうー!とラーメンが出てきた時点でさて、何から手をつけるか?というのもなかなか深刻な問題である。
はやる心としては麺に最初に手をつけたいが、さりとてスープを無視したかのようながっつき方も大人としてあるまじき態度ではないか、アツアツにはじけそうなプリプリのもやしに対しても失礼ではないか・・というような逡巡が一瞬のうちに心理内に去来する。
まあここでは正解というものはないが、私はうどんは汁から、ラーメンは麺からいただくようにしている。
うどんは汁を飲んでから七味などを入れる調味感覚を、合間を残した食べ物のような気がする。
反対にラーメンは既にして完成された作品としてそこに出てくるから、いちいちスープを確かめる必要がない気がするのである。
ラーメンに絡まったスープを麺といっしょくたに味わえばそれでよいのではないかという気が濃厚にする。
よく、食べる前から胡椒をパパっと振っているヒトがいるけどあれはよくないな。
おうちでもお母さんや奥さんやらが作ってくれたもんに最初から調味料を入れたりしたら失礼というのと一緒の理論である。
さて食べ始めた後にも順番的決まり手があって、それは冷めたものはしばらくスープにつけておいて食べ進んだ後に食べるというもの。
メンマやナルトなんかはどこでもこの法則が当てはまりますな。
まいわれなくても冷えたチャーシューや冷めたもやしなんか入れてくるとこではスープに浸して熱くなったところを食べた方が美味しいもんな。

4.スープはどこまで飲んでいいのか
嵐山光三郎だか東海林さだおだか忘れたけれど、ドンブリの底の絵柄が見えるまで飲んではいけない、とどこかに書いていたのを見たことがあるが、まさに言いえて妙、それくらいでジャストではないか。
全部呑みきってしまうというのもなんだか自分がラーメン通を気取っているような雰囲気がしてしまうし、逆に卑しくサモシイ感じもする。
一方で美味しかったスープはできる限り飲みたいという願望もやはりこちらとしてはある。
その兼合い、せめぎ合いとしてどんぶりの底から1〜2センチほどでやめておくというのが日本人としての美意識のベストマッチではないだろうか。

5.麺はどれくらい噛むか
昔理科か何かの教科書に「肉は胃袋で消化するからあまり噛まんでいい、炭水化物は唾液主成分アミラーゼが分解するからよく噛んで・・」というようなことが書いてあった覚えがあるが、こと麺類に限ってはそれほど念入りに噛まなくていいのではないかという気がする。
徳川家康はゴハン一口48回噛んだという話も、これはおじいちゃんに聞いたのだけれど、ちょっとしつこいんではないかと思う。
ゴハン一口48回噛んでたら食事1回2時間コースになってしまう。
口の中で澱粉が発酵さえし始めるような気もする。
特に麺類はその「ノドゴシ」が命であるから、10回以上噛んだらなんだか違う食べ物になってしまう。
ラーメンは栄養摂取というよりは味とその流れシチュエーションを楽しむものなので、健康や化学に偏向しすぎるのはよくないのである。
しかしだからといって噛まなすぎるのも問題である。
うちの子供(男)はラーメン食べさすと器からずるずるずると呑みこみ始め、噛まないから胃と器が連絡連結したままになり、最後うぐぐぐとなってしまうので今ではあまり食べさせないようにしている。
一度ラーメンを食いながら息詰まって吐いたことがあって、見てみると給仕されたままのラーメンがそのままの長さと質量で器にもどされていて、つまりまったく噛んでいなかったことが判明したのだがそこまで徹底するのもある意味すごい。
長生きするわ。
つまり結論としては、呼吸できる程度に噛み切っておいたらいいんではないかということである。

いろいろ言ったけど、まあラーメン食べるのに他人様の意見聞くこたないわな・・と今さらながら思い返してみるにつけて、一体この何分かの論考はなんだったのだろうか・・と蒼穹の徒労感が襲い迫ってきているが、最後にひとこと。
大阪の市内中心部(キタとかミナミといわれるような地域)ってあまりラーメン美味しくないな。
これはラーメン以外の食べ物にも共通する気がしているのであるが、食いだおれという掛け声の勢いに比べて実質の大阪食文化レベルって高くない気がする。
外食企業、店の数はそれこそ食いだおれほど、きら星ほどあるけど、その実態、味のほうはある一定レベル到達で満足、あるいは欺瞞化していて、もう1回ここに行きたい!という味覚対象にはあまりお目にかかっていない。
「食いだおれの大阪」という観光化が進んでしまった結果と言われても仕方ない、つまり伊賀忍者屋敷で観光客相手に記念撮影している忍者の物悲しさと同レベルなのである。
ラーメンについても、他地域にはもう一度行きたい行きたい・・という欲望のナメクジの這いまわる店がたくさんあるのに、大阪では「ラーメン食べたいけど、どこいこっかなあ・・」と立ち止まって考えてしまうような状況で、まったくさみしい限りである。
誰かイイトコ知ってたら教えてちょうだいな。





戻る

表紙