海洋空間壊死家族2



第70回

受粉   2005.3.16



大空にとりがとぶ
雲のゆくとこわからない

むつきかく



いつも買い物に行くスーパーマーケットの駐車場の入り口に、交通誘導係がいるのだが、この中のひとりが楽しい人で、交通整理をいわゆるパントマイム風の動きでやっていて、それはもう時間があれば何度も駐車場を出入りしたい楽しさなのだ。
街中でそれを見かけたとしてもそれは全く目に止まるような代物ではないのだが、警備会社から派遣されているであろう、制服姿のおじさんが白い手袋でぴたっぴたっとロボティックな動きをするのを見ると思わず笑ってしまう。
そのうち誰か事故るのではないかとひそかに楽しみにしているのである。
まあそれはともかくこのおじさんがこのあいだ白い手袋に加えて白いマスクをしていて、おっ新ネタか!? と興味しんしんに見ていたのだが、全くの期待はずれで、何のことはない、おじさん、花粉症であったようなのだ。

今年もまた花粉の季節がやってきた。
この季節がうれしいような悲しいようなやるせない感覚が付きまとうのはなにも別れと出会いの季節である・・からというだけでもなく、旬のものとしての「花粉」と「さくら」が一緒になってやってくる、というのも一因である。
しかし、さくらが開花しはじめる3月下旬までの数週間は、春めく気温と水温の中で「花粉」の悩ましさだけがずずいと無遠慮に突出する。
いつも思うのであるがこの花粉の本質と性質というものを考えた時、近代日本人の集団集約傾向、歯止めの利かない一方向拍車性向というものに全く似て非なるものでない気がしてそこでもまたうんざりしてしまうな。
杉やヒノキのオスがむやみやたらと無差別に生殖分子をオナニー放出している、というのが生物学的に見た実態である。
そこには明確な自我や自己主張や想像力というものが欠落していて(あっても困るけど)、みんながやってるから、それ、自分もわぁーあっあっ快感・・という、いかにも醜い集団心理が働いている。
つまり精液の匂いと群れ行動のいかがわしさを私などはそこに感じ取ってしまうのである。
まあいうまでもなく、そのような内面心象風景よりもカラダの方はもっと素直に反応して、今年は3月7日から(例年より2週間遅かったね)一斉にその生殖活動の煙幕は飛散はじめたようで鼻の方はしゅるしゅるとせみているのであるが、しかし言われていたほどではない。

言われたほどではないというのは、去年の秋くらいからまるでオオカミ少年のように今年はすごいよーすごいよーと製薬会社の辺りが騒ぎ始めて、一般にそうなんだろうなあというコンセンサスができあがってきたという、そう、今年は例年の数倍の花粉が飛ぶという説、あれである。
1cm方に花粉1日何万個なんていわれると、デンタルガムの大腸菌CM映像なんかにも興奮してしまう私としては、弱ったことになった・・おろおろ・・と数ヶ月前から狼狽などしていたのであるが、実際に季節到来してみると、なんだ思ったほどではない。
やはりバレンタインデーなんかと一緒でマーチャントコマーシャリズムが煽動したという話だったのか。
確か去年はロートなど目薬花粉関係の会社は在庫がはけなくて2桁の利益減になっていたから、今年こそは・・というゴーン的V字回復を狙って比較的短期の戦略的流言蜚語を使ったのか、とも思われるがそうでもないらしい。
実際には今年はひどいという人もいて、どうもこれは自分が特殊で、治りかけているのかという気もしてくる。
去年なんかはあまり飛ばなかったといわれたが、その前もその前の前もいってみればあまりたいしたことなくなってきている。
中学2年生の春にS田Y一郎君と教室で遊んでいた時に発症して以来、十数年ものあいだ花粉症と付き合ってきたけれど、ここ数年は従来の3割減の症状で済んでいる。
なにしろヒドイ時は咳のしすぎで血を吐いたこともあったからその頃と比べれば雲泥の差である。
もともと花粉症というのはある受容体がある抗原に対して過敏に反応してしまうという、いかにも思春期にありがちなセンシティブな神経症のような症状であるから、そういう若さとか青春といった言葉に代表されるメンタルな部分が年をとるにつれて磨り減ってなくなってきてしまったらあるいは症状も緩和減滅していってしまうような気もする。
なんだかそういうのも癪であるけれど、どうもこの年になるとそういう若さを失うということに対して逆に過敏になって喪若症とでもいうべき老いの新たな病気を患いつつあるのかもしれない。

そうはいってもその蝉しぐれの夕焼けには、実はある種の優越感みたいなものも存在していて、何を根拠にしているのかは全くわからないのだが、たとえばこの花粉症ひとつ取ってみてもそうで、歳を経たからこそ症状を緩和できているという確信に似た感覚がある。
若いうちにはもう何がなんでもすべての異物、変化に対してあらゆる反逆と反抗の態度をとるパンクな性格というものは誰でも持ち合わせているものであるが、この歳になってくると、そういう異物や異形異貌のものに対して懐にストンと受け入れてしまう心の余裕というものが形成される。
つまり花粉という外からの侵入物やカラダのちょっとした反応を無批判に受け入れる物理的バッファがあるという感覚があるのである。
今まで少しでも鼻がむずむずすると大きくくしゃみをし、1日でハコティッシュ一箱なくなるほど鼻をかみ、目が痒ければもう目がつぶれるまでこすりまくるというような、ある意味ポオズといってもいい行動をとっていたのであるが、三十路を迎えた今となってはその初動段階で、うんうん、まあまあ、という貴ノ浪のような懐の深さが物理的に働いて、そのうえ禅僧のように心と身体をしづめて心の暗闇の遠くを見やるというような時間的空間というものがあるから、ある一定レベルを超えた危険ゾーンまで症状が陥ることがない。
だから目薬はそれほどささなくてもいいし、鼻もそれほどかまなくてもすむ。
とくに外に出ると自制が働いて花粉症状が止んでしまい、なぜか家に帰ってくると気が緩んでくしゃみ鼻水のコンタック状態になることが多い、というのはこれ読んでるヒトも心当たりがあるのではないか。
やはり病は気からと昔から言うように自分の身体のことは自分の心が決めているのである。

こうなってくるとこのオトナノ感情調伏コントロール術をほかの方面(色欲や食欲やその他もろもろ)にも応用して、高尚なる人格者(私のことね)がさらなる崇高な高みに上り詰め、聖人・聖者になりうるという予測もあるのだが、まあ実際にはその辺の街の歩きタバコのうんこ男なんぞにクソげろ破壊ビームを照射し、さらには先日「サヌバビッチ」と外人に言われ、以降悔しさのあまり外人を見かけたらビッチ! と逡巡なく言えるよう身構えたりして、まあ平たく申せば大人気ない、あいもかわらぬ春ノ日ノ縁側なのである。





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