海洋空間壊死家族2



第78回

声紋  2005.9.21




アメンボの会話は
ぬばたまの昏き水面の
のっぺら面に拡散する意識とこだまして
畢竟手足の感受するともがらの叫びは
クラウンのけたたましき馬鹿笑いにも似たり



人間の顔ってホントどこの誰のを見ても個性的で楽しいが、特に8時だよ人員集合移動体である電車なんかに乗るとそれだけで私なぞはどぎまぎしてしまう。
それはまるで遊園地に行ってさてどれから乗ろうか! と興奮しまくりパニック症になってしまうお子様のように、あるいは朝食バイキングで食べきれるはずもない量の塩ジャケとスパゲティーと唐揚げとチーズケーキとその他もろもろを無節操に食卓に運んできてしまう中年婦人のように、興奮のボルテージはいやがおうにも切迫隆起して、電車内のどこを見ても人間がいる空間に入りこんだ幸せに狂喜しながら、命短きモンシロチョウチョの如く人の顔や姿態に視線をとまらせ巡る楽しみはこの上もないのである。
しかしその楽しい電車ウォッチングの時間にもそれ相応の不満というものも渦巻いていて、それはなにかというとみんなまるで謀ったかのように、示し合わせて黙っているのが面白くないといえば面白くない。
せっかくこちとら新聞読む寸暇を惜しんで観察しているのに、貝のように口を噤んだままというのもあまりに愛想がないではないか。
難波までの30分間をまったくオシノヨウニ押し黙って吊り革にぶら下がっている女性などを見ると、あんた生まれてきて何が楽しいのだ! と叱りつけたくもなる。
たまに精神的障害者が乗ってきて何事かぶつくさ言ってるのを見るとよほど人間的ですがすがしいのである。
だから携帯でべチャべチャドチャドチャしゃべってる人を見るとほんとその話してる内容のバカラシサも含めて人間讃歌的な感情がフツフツと湧き起こって一日が楽しく始まるのである。
せっかく携帯電話という離間会話システムを持ってるんだから、もっと積極的に痴話喧嘩しなくちゃ。
思い出し笑いしながらメイルなんかしてる場合じゃないのだ。

それはともかくというか、それに関連してというか、人間の声というのもまったく同じものというものはなく、顔や姿態に匹敵して興味深い対象の一柱である。
たとえば、その声の宗派によってはもう身震いするくらい擦り寄りたくなる魅惑的コワ音もあれば、黒板を爪で引っかく音やアルミホイルを歯でしごく響音にも似た、生態的に相容れない声の持ち主というものも世の中にはいる。
前者でいうと、そのむかしクレオパトラがなんであんなにモテタかとういとそれは声が最高にエクスタシーだったからだなどという説もあって、そんなモテ声ってどんなだと思うけれどオジサンにはよほど想像ついてしまうのであるが、いわゆるねるとん紅クジラ団のナレーションのような声に違いないと思うのである。
あれは私が中学高校生くらいの頃だったのだろうか、女性というものがまだ、「おんなのこ」で、それはまったく「オンナ」としてあるいは「ヲミナ」としての吐息でネットワークな印象というものすらなかった時代の、ある意味シャングリラかつヴァルハラな筋肉少女態の頃の思い出である。
あの今聞けば非常にうざったくもクグモリぬヴぇったいリヴァーブ気味のささやき声は、あらゆる稚拙な男性混声5部合唱をめろめろにしてしまうピンクフロイドなささやきであったと思うのだ。
あの声の主(正体)はとうとうお蔵入りしてしまったが、わたしの「声」、とくに女性の声というものに対する執着というものは消えずに残って、今では気に入った声の女の人を見つけ出しては行きつけ何事かしゃべらせて、ひとりグフフグフフと悦にいるような具合ちゃんなので、しゃべらそうしゃべらそうというナゾの男を見たら女の人は要注意なのである。
ちなみに今の流行は声が低いカツゼツの良いタイプがお気に入りなのである。

逆に後者、とんでもないコワ音でいうと、たとえば電車に乗ったときのあのがらがらしゃがれダミ声が代表的である。
浪曲遠州森の石松からある種の媚びを奪胎したうえで、3晩ほど靴箱の中で陰干しにした揚げ句、オカマ調味料と蓄膿鼻汁を加味したものと言ったらいいのだろうか、まったく有機的に気味が悪い、ムナクソ悪いギャオス音の集合体である。
線路と車輪の組み合う音にシンクロする、つまりまったく聴き取りにくい、「それわざとだろ・・」というくらい類型化された一本調子の無感動なアナウンスは、知ってか知らずか全人類を敵に廻している。
あれは研修かなんかで同じようにしゃべらす訓練をしているのか、それとも血縁や生態の同族性がひとつの宿命方向へとスパイラル的に口蓋・声帯を収束していくのか、よくわからないが、ひとつ言えるのがあれを聴かされるのは社会通念上の人間としてイトここちわろし、ということである。
だいたいあんな声で普段しゃべってないだろ。
あの声で「さあ、今日の昼飯なんにすっか!」「今日はヤキメシー、ヤキメシー」「お、冷房効いてるなあ」「ハイ、ドア閉まります」なんて会話が繰り広げられているとは思えないのである。
さらに家に帰ってもあの声で「本日はー、あっあっ御乗車有難うございます、あぁっ・・」などとコスプレにも似た私生活があの濁声で為されているとしたらやりきれない思いがする。
あの車内アナウンスって普段真剣に聴いてる人がいるのか知らないが、聞き分けようとしてもよく理解できない上に、気分がざらついている時に聞くとほんっと腹の立つ声の一派である。
逆に、あれを純粋に聴きたい時って、初めておとづれた土地で駅名や乗り換えの案内を聴きたい時なんだけど、そういう時に限って必ず分からないように声を潜めたようにぼそぼそっと呟くだけなのはなんでなのだ。
そういう意味でも電車アナウンスというものはサービスや良心という思想に基づいて行われているのではなく、攻撃的、嗜虐的、あるいは欺瞞的に行われているのはほぼ間違いない気がする。
しかしだからといってあの車内放送がいかなる声域のいかなる抑揚を持って拡声されるべきか、というと、これといった前向きのお勧めや希望もなく、なかなか一筋縄では行かない行き詰まりを感じる問題なのである。

ところで、このあいだ地下鉄に乗っていたら、例の車内アナウンスが聞こえてきて、本能的に意識から外そうとしたのだが、つぎの瞬間私は全神経のニューロン伝達物質と甲状腺システムリンパ液&血流を頭部側葉部分に逆流集結させた。
つまり簡単に言うと耳がダンボ化したということね。
なぜかというと、あろうことかそれはあってはならない女性の声色だったのだ。
誤解がないように言うと女性の声であるのは歓迎すべきことなのであるが、何が私の癇に触れたかというとそれが「あってはならない」女性の声だったことだ。
最近改札や車内うろつく車掌サンなんかも女性が増えてきて、むかしパーサーとお付き合いしたいというだけでJRに就職した知り合いがいたけど、そういう意味ではその制服的な分水嶺も含めて曖昧な定義が彼を今悩ませているのは間違いないのであろうが、まあ女駅員自体それほど驚くべきことでもなくなってきているのは間違いない。
しかし、私の聞いたその女性アナウンスはそういう一般的女性オセロ現象を凌駕した、明らかに車内を一瞬こわばらせるに足る、奇矯さ、醜矮さを包含していたのである。
具体的にいうと、しゃべりが著しくスローモー、かつ著しくネトネトなのである。
ゆうゆとか小倉とか、のんたんとか、あらゆる罵倒対象の声色の平均値をマイクロフォンにのせて「つぎわぁ・・、ほんまちぃ・・、はんまちでぇすっ・・」とつぎの瞬間にほろほろと煮崩れそうな鰈の煮付けのようなあやうさで、よろよろと御案内させたまうのである。
こういうとき人間はどういう反応をするのかというと、それは「あはは」でもなく「くぷぷ」でもなく、ただ重苦しいプラハの春にも似た連帯感と悲壮感があたりに充満するのである。

この話をある人に話すと「まあそれが車内アナウンスくらいで良かったんじゃないの」というのである。
その人曰く「嫁サンがその声なのよりましだろ」。
たしかにうちに帰るとあのねちっこい声で「あのねっポンたんねぇっ」とお出迎えされるのもかなわない。
しかしだからといって逆にどんな声がいいかというとそれもまた難しい。
たとえば冒頭の紅クジラな声で「ちょっとそこの雑巾をとって欲しいの・・・」と毎日が勝負パンツな思い詰めで何事もささやかれるのもどうかと思うし、そうかといって、小林カツ代や花沢さんのようなしわがれ声で叱り飛ばされるのもなんだかなあという感じがする。
まあ結局今のところ、現状のきいきいヒステリックな妖怪大戦争なお出迎えというのが一番分相応な気がするのも、なんだか、むなしい。





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