海洋空間壊死家族2



第82回

卑劇  2006.12.17




黒の固体が
窓の外から密着して
次第にその勢力を増している

寝間着の少年が
窒素と膠の薫りにむせび
ガラス窓は
黒いゲルに
みちみちと
割れんとす



この数年間で変わったことと変わらなかったことがあって、それは確実に歴史として不可逆的に、何といったらいいのか、つまり物理的世界の宿痾として物事の形というものが変質し、あるいは行って帰ってきて表面上普遍を保っている、というような何かしら形而上学問的動向を示していて、ある意味非常に興味深い。
実際その変わったものの変わりようといったら昔食えなかったセロリが食えるくらい根源的に変わってしまったのだけれど、一方変わらない方はほんと全く相も変わらず、森光子のタケヤ味噌、あるいは由美かおるのプロポーションのように微動だにしない安定感を誇っている。

世の中には変わらないことが一番悪いという組織集団もあったりして、グローバリズムとカニバリズム全盛の昨今においては変わらぬことへの賞賛は退行し、必然的に変質者と偏執狂への評価のベクトルは拍車をかけて右傾化していっているのだけれど、やはり、変わらぬものを発見したときの、変わらぬものを保持しているときの精神の高邁な抑揚、例えるならば、ラフカデオハン、ブルーノタウトの「発見」、または川口浩探検隊シリーズが世に受け入れられていた、パタナリズムの時代へのノスタルジーにも似たトキメキというものは我々日本人は捨て去ってはならない魂の叫びだと思う訳である。
そういう意味で我々は毎度おなじみの時代劇を見て何かしらの満足感を得たり、毎週ほとんど同一ストーリーのヒーロー冒険ェを眺めたり、ルールというユニバーサルな既視感を伴ったスポーツ等を鑑賞しては楽しみを獲得する訳である。

ただし、その変わらぬモノコトへの愛着というものはモノコトの内なる深耕性の発露という形で担保されるべきであって、なんでもかんでも変わらなければいいということにはならない。
コンクリートの用水路や、山林に散見する準公的産業廃棄場などに心動かされるはずもなく、これらの普遍性は逆に怒りの追求の対象となるべきものであり、また、戦争での人殺しは許されるという国際法上の慣習や、あらゆる人間の憎悪・恐怖的な心理性他律も排除され得ぬ不変性として憎むべきものである。

まあそれらの特定のものを除けば、どんな不幸や醜悪でさえも、変わらぬことへの驚きと懐かしみと慈しみは惹起されてくるというのが普通なのである。
肉親家族の死や、不潔な食事や、痛烈な怪我などもそのときは深い悲しみとショックに打ちのめされてもその出来事自体への親しみというものはいつしか湧いてくる。

しかし、この世の中には、どんなに慣れ親しんでも、どんなに生活上身近であっても、まったく順応できず、ましてや親愛尊重の念など生じ得ず、その不変性にいらだちとヨコシマな憎悪しか抱き得ない恐ろしい存在がある。
銀行である。

ほんとやつらの行動指針と精神衛生というものにはほとほと愛想が尽ききってしまっていて、その公的社会的不格好さにそろそろあきれ慣れ始めてもいいのだが、あまりに新手新手のいらだちの種を振りまいてくれるので、こちらとしては適応する暇がない。

これまでのあらすじ的には

1.サービス業なら土日営業しろ
2.無金利調達資金を偉そうに使うな
3.税金払ってないくせに威張るな
4.被害者ヅラするな(バブルと不況は誰のせいか)
5.公的資金は当然の権利か
6.そんな企業が給料出し過ぎちゃうか
7.時代が変わって資金調達に翳りが出たときは覚えとけよ

などなど・・。
下世話なものまで含めて、挙げればキリがないのだが、まあこれまでのことは水に流そうじゃないか、今後景気が緩やかに拡大していく中、護送船団方式でない新しいサービス業としての船出を温かく見守ろうじゃないか、という寛大な考えが当方になかったではない。
変わらぬところの美学が発露する可能性がないでも無い。
しかし、淡い期待はやはりというかやっぱりというか、逆の期待通りに裏切られた。

手短に話そう。
まず、支店統廃合だ。
焼け太り水太りのメガバンクが統廃合するに若くはない。当方もそれ自体に異議はない。
しかし客の所属する支店がなくなって口座の名前が変わったことくらい教えてくれや。
私がそれを知ったのは銀行からのお知らせではなく、会社の人事部の通知からだったというのもすさまじい。
振込口座がなくなったので新たな振込先を教えてくださいだとさ。
そんなアホな。
最寄りの支店行ったら「通帳書き換えたら支店名が判りますよ」だと。
ま、たしかに書き換えたら新支店名および口座が判明して特に問題にはならなかったんだけどそういう問題ではない。
普通のサービス業なら平身低頭して謝るところだけどさすが銀行様。
いっぱしに見てもらうには口座残高が少なすぎたのだろうか。
それとも顧客として何か至らない点が何かあったのでごぜましょうか、と急激におどおどと卑屈な感情が頭をもたげるが、しかし、意地悪されるようなことはこのポエトリーに悪口を記述してる以外は思い当たる節は何もない。
まさかここから口座番号はわからんだろ・・。
とにかく、ライフラインを押さえてるという事実とプライドがあのシステムと態度を温存させているのは間違いないのである。

次にカードシステム刷新。
まあカードシステムを刷新するにも若くはない。
お気に入りのJ.Oカードデザインも擦り切れてきちゃなくなってたので、この機会に気分もアラタにという趣旨では当方も異存はない。
しかしこのあいだ早速、新カードの不具合が判明した。
飲みに行く前に、ひゃっほひゃっほと慌ててATMで現金抜き出そうとしたら、なんだか画面表示がいつもと違う。
おやと思ったら金借りる方になってたのだ。
こちらとしても10年前その失敗で金利を支払ったことがあり、気をつけているのだが、この新カード、入れるATM機械によってキャッシュカードの方向が違うのだ。
IC対応の機械ではクレジット→表示の方で、普通の機械ではキャッシュ→表示の方で現金引き出しになるのである。
んでさらに「キャッシュの取引でよろしいですか?」と訊いてくる。
キャッシュの取引って何だ? 全部キャッシュでねか。
預金引き出しとかもっと想像のつく言葉遣いがあるだろ。
ややこしいこと極まりない。
それ以前の問題として、銀行カードに借金機能をつけることの是非がある。
常識的に考えて預金が100万ある人間がATM使って現金10万を借金して引き出すか?
これがライフプラン的な窓口手続きならあり得る戦略的資産ファイナンスなのだが、ATMってそういうものではないはずである。
「ちょっと手持ち補充」というのが社会通念上想起される一般的使用方法ではないだろうか。
銀行側に、あわよくばの錯誤的借金を収益の嵩上げにしようという期待が微塵も、毫も、毛の先ほども、無いか。
そういう意味で、カードに借金機能つけるという行為に非常に犯罪的な、未必の故意にも似た悪意を感じ取ってしまう私の感覚は異常なのだろうか。
年寄りの客の半数は間違って金借りとるで、これは。
この薄汚なネコババ行為に比べたらオレオレ詐欺なんてかわいいものである。
社会問題化して公正取引委員会が入るのは時間の問題なのである。

カードでもう一つ。
暗証番号入れるところのボタン。
順番を統一して欲しいと思うのは私だけなのか。
初めての機械で不注意に暗証番号をポンポンと押していくと必ずミスになる。
1が左下にあるか左上にあるかなのだが、最近はもっと複雑系の機械が出てきて、カードを抜き差しするたびに数字の場所が変わっていくのである。
そりゃ社会がそういう盗み見の方向へと移行しているという事情もよくわかるけどそこまでした上での犯罪を防ぐ疫学的考証は果たして為されているのだろうか。
やられるときはやられるものである。
大体あんなもの、ゴルフ場のロッカースキミングの例が示すように、内部の手引きや協力がなければ成立しない犯罪だと思うのである。
もっとほかのところに注意を向ける必然と義務が銀行にはある。

色々言ってきた当該銀行、本来実名で告発したいがまあ嘲りを込めて名前は仮にM銀行としておこう。
と思ったら今、日本国内の銀行はほとんどM銀行なのね。

この潜在的横並び意識とその無競争状態からの怠惰と欺瞞、無根拠かつ無意味な矜持を捨てない限り、銀行業界の変革はありえない。
まあだからこそ、この数年間変わらず人々の罵倒と嘲笑の的となり続けているのだけれど。





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