ハードボイルド風の筆致が時代を感じさせ、男女のやり取り等もいかにも古めかしいのは否めないが、肝心の中身はしっかり骨太でずしりとした質量を伴っている。
人智の及ばない神の領域…とあっさり書き記してしまうのはあまりに月並みで陳腐なことだが、それでも、標高8000mを超える峰々の世界というものはまさしく神々が統べる聖域に他ならない…と本書を読んで強く感じる。
そしてそんな神の世界が漠然と抽象的な表現でなく、非常に具体的かつ詳細に描写されていることに感銘を受ける。
上る人間の目線からどう見えるのか、壁を攀じる際に何を感じ、どういった手順で体を動かして高度を上げていくのか、そして体はどう変化していくのか…もちろんそれが真実に正なのかどうかほとんどの読者は判断できないものの、底知れぬ質感を以て迫ってくることは確かである。
アイスフォールの成り立ちや行く末を解説する下りは、自然の圧倒的なスケールを物語るのに充分であった。
挑んでいる最中のパーティー内の力学や駆け引き等も、実際に経験したわけではないが"ああこんな感じなんだろうなあ"と思わせる説得力があり、ジャンルは異なるが近藤史恵氏の「サクリファイス」シリーズを読みサイクルロードレースの舞台裏を垣間見る体験に少し通じるかもしれない。
羽生の手記こそちょっとアンリアル、作り物感は出ているが、これは小説であるが故仕方ないところか。
また、がっつり山をやっている人でなくとも知っているレジェンドたちの名が出てくるのも面白い。
植村直己や加藤保男は実名だが、ストーリーに深く関わる人物は"長谷常雄"や"岸文太郎"だったり。
私たちが日頃親しんでいるような趣味の登山の範疇を大きく超越したエクストリームなチャレンジが、スポットライトの当たらぬところで環境や地域に大きな負荷を掛けているという事実や、英国の帝国主義を下支えする弾除けとして利用されていたネパールのグルカ兵という存在等が、しっかりと筋に絡められ上滑りすることなく説明されているところも、巧み。
最後に、深町誠は実に罪深い男であるが、結局それに深奥では無自覚であるらしいところが、少し恐ろしい。
「岩というのは、あれは、まあ、一種の才能なんです」
「絶望感ではない。
もっと根源的な、肉体の深い部分での認識であるような気がした。」 |