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2007年1月28日(日)

極論であること委細承知

ハイティーンと呼ばれる年代あたりに差し掛かり、人並みにものを考えることができるようになり出した頃以来の、決して解決せぬ継続した命題を、昨日も今日も明日も僕は考えてしまう、きっとたぶん。

たとえば、ある人が持っている1つの性質、特徴的な性格の1要素を言葉で評するのにも、いろいろな表現がある。
同じ性質を表すのに、「あの人はしつこい」と言えばマイナスイメージがもちろん強く働くし、対して「あの人は粘り強い」と言うならば、それは称賛の範疇に入る。

そんなケースと同様の構造体として捉えられるような様々なテーゼ、決して両立し得ない矛盾した生活目標のペアが何組も何組も、僕に襲い掛かってくる。

僕は4年前ケニアに旅行に赴いた時、せせこましい世の中で小さな物事に拘ることの馬鹿馬鹿しさを知った(気がした)。
また別の機会には、「世の中は自分の思い通りに行かないのが当たり前、細かなことをいちいち気にしているべきではない」と自ずから思い至ったりもした。
ところがまた、さらに別の機にはこうも思う。
「細かいことを気にしないというのは、一見大らかで豪放な性格には見えるけれども、それは“大事なこだわり”さえも失っているということにはならないのか? すなわち、向上心を、もっと生々しい表現をすれば、野心を失っているということになりはしないか?」

誰もがまったく他者と関わりを持つことなく生きていくのは不可能だから、外にも出て行けば会話もする。
どんなポリシーを持ってどんな生き方を選択していようが、その時に不快な思いを味わうということは、必ずある。

レストランに飯を喰いに行ったら無礼な店員の応対に腹が立った。
道を歩いていたら数人で前をふさぐ無神経な団体が邪魔でイライラした。
会議の席上で空気を読まず的外れな発言をする輩を軽蔑した。

誰にだって訪れるそのような機会に、「まあこんなのはよくあることだから」と波風立てずに穏やかに飲み込むことができる人は、確かに成熟した大人であることには違いない。
僕だって常にそうやってすべてを包容してしまうような大人物に、なれるものならなりたい。
何が起こっても怒らず慌てず騒がず、心の平静を失わない人になれたらどれだけいいだろう、と思わないことはない。
だけど、もしもそうなれたとして、それは本当に“正解”なのだろうか?

レストランの店員が応対を誤った時、客たる僕はいついかなる場合でも「いいですよ」と笑って許すべきなのか、それが本当に“大人”としての振る舞いなのか?
もしそうでないならば、果たしてどこまでの行為を笑って水に流すべきで、どこからが「ちょっと待てよ」とクレームを申し述べるべきなのだ?

業務上の動きにおいて、守るべき領分が侵されていると感じた時、“大人”は事を荒げずにやんわりと受け流すものなのか?
そうでないならば、多少のリスクを冒しても、理屈の上で間違っていることは間違っていると主張するのが企業戦士のあるべき姿なのか?
そもそもクリエイティヴィティが必要な戦場において、“調整ごとが得意”であることと“鋭利な企画力を持つ”ことは1つの人格の中で両立するのか?

すべてのケースが生き物であり、すべての刹那は唯一無二であるから、判断基準たるラインなど端から存在せぬのかもしれないが、それでもその“線”を永遠に探し求めながら、少なくとも僕は残りの時間も生きていく。

自分の器を大きく育てながら、正統に生き様を主張し、失ってはならないこだわりを持ち続けるということは、至難、というよりも、絵空事…?


♪ Face To Face - Tommy Lee


コメント

それが「美学」ではないでしょうか

きっと、究極は「神」に近しい存在になってしまうのですが、自分なりの「線」を持つことは「美しきを知る」ことに他なりません。

無礼な店員を叱咤するのか、クレームを本社に出すのか、笑顔で流して自身の反面教師とするのか…

「美」には答えがありません。
ピカソを美しいと感ずる人あらば、ダリが素晴らしいと感ずる人も…

編集長のこだわりは、「美」と同意。

僕はその姿勢が好きです。

ルパンⅢ世のテーマでも聞いてみてください。

♪男には自分の世界がある
例えるなら風を払い荒れ狂う稲光
都会の闇に体を溶かして
口笛吹いてる男の「美学」

美学、そうだった。
自己の内に創り上げる、論理的なフィールドと非論理的なフィールドの割合、棲み分け、線引き。
それこそを、美学と言うんだった。
思い出させてくれてありがとう、ピートマック・ジュニア。

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