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2007年3月 1日(木)

すべては個人の線引き次第

PCとオーディオアンプをつなぐオプティカルケーブルを買ったばっかだけど、やっぱり理想はワイヤレスだよななんて思って、Bluetoothを使ったワイヤレスシステムをうろうろと探してみた。
iPodや携帯電話など、携帯型プレイヤーを念頭に置いたBluetooth対応ヘッドセットは山ほど見つかるが、お目当てのアンプにつなぐレシーヴァータイプのものはなかなかヒットしない。
それでも頑張って探してみたら、種類は多くないが、アンプに付けるBluetoothレシーヴァー単体や、レシーヴァーと送信機がセットになったものなど、いくつか使えそうな商品はある。
探し始めた頃はBluetooth内蔵のMacBookのiTunesを稼動させることが前提だったけど、そうかUSBに挿す送信機もセットならばちょい古いデスクトップからでも充分聴けるわけだな。
まあこれはしばらくは買わないと思うけど。
ちなみにヨドバシカメラにも寄って何人かの店員にいくつか訊いてみたんだけど、まだ世に登場してそれほど年数も経っていない規格だからなのか、ビックリするほど知識を持っていない。
しっかりしてくれまたえ。

数日前のニュースだけど、ホンダのF1マシンの車体にはスポンサーロゴを載せず、代わりに地球の絵を描くんだとか。
「地球環境問題への取り組みを新コンセプトに」。
この星の環境を大事にしようという姿勢と行動はもちろん極めて重要で望ましいことだし、それについて何ら否定する意思はないが、でも、短絡的にまず思ったのは「じゃあF1レースやめちゃえよ!」ということ。
CO2削減、温暖化防止、化石燃料を大事に、なんてことをコンセプトに含めながら、大雑把な想像で申し訳ないけれどもおそらくは100台や200台の乗用車がアイドリングストップを心掛けたところで追っつかないほどのCO2を撒き散らし、限りある原油資源をアホみたいに浪費するF1グランプリというものに積極的に参加し、のみならずそのイヴェントにおいて「地球環境への取り組み」をアピールするという壮大な茶番劇。
に思えるのは私だけ?

正直に言えばいいのに。
私たちは今さら地球環境に少なからず悪影響を与える科学技術を享受することなく生活することはできない。
ガソリンのない生活はちょっと想像ができないし、同じように電気も必要、木材も必要、夏になれば冷房を点けるし、冬には暖房がいる。
生きていくためには獣も殺すし海洋資源も獲る。
そうした生命活動の基幹のみならず、人間である以上娯楽も必要とする。
地球環境にとって好ましくない娯楽も数多い。
数多あるそんな娯楽に含まれる1つがモータースポーツ。
私は個人的にはF1を止めてしまえなんて意見を持っているわけではもちろんなく、鈴鹿にも何度か観に行ったぐらいむしろ好き。
だから、なのかどうかは分からないが、そのF1レースと環境保護を結び付けることだけはどうしてもおかしいと思う。
F1はF1で娯楽としてあればいいし、他方、できることから意識を高めて地球環境を守っていきましょうと啓蒙し合えばいい。
F1マシンのボディに地球を描くことは、再度言うが、笑えないギャグだ。

自分のできることからやっていきたいとちゃんと地に足つけてハイブリッド車に乗っている人は素直にえらいなあと思うけど、私こそが環境保護の急先鋒であり体現者ですてな顔をして(時には言葉に出して)ハイブリッド車を走らせている人には、「じゃあ自転車乗れば?」と言いたくなる。
あんたたちの国って未だにクジラ獲ってんの? 野蛮です! 絶滅します! などと叫んでいる人たちには「あんたたちの国でスポーツと称して行われているハンティングを法律で禁止する方が意味あるけど? そもそも肉は捨てて脂だけ採るためにさんざんクジラを獲りまくっていたのはどこの国?」と言いたくなる。
その種が持つ特性や歴史などを何ら学ぶことなく、かわいいからと飼い犬に服を着せ靴を履かせ運動も満足にさせることなく悦に入っている自称愛犬家には、「あなたは動物が好きなのではなく、“自分の所有物であるペット”が好きなんですね」と言いたくなる。

今読み返してみるといささか飛躍してしまっているけど、今回のニュースを見て思い出したこのような感情。

算数じゃないから正解はないし、万人が共有できる絶対的な価値観もない。
だから、考えることにはたぶん意味がある。

そうそう、書き忘れていたけどもう1つニュースでビックリしたのが、「悪魔が命令した」のが認められちゃって無罪判決が出た気狂い轢き殺し犯。
こうした報道を聞くたびになんとも言えない気分になる。
心神耗弱、心神喪失、責任能力なし…。
なんだか難しい言葉で表現されるけど、そもそも故意に人殺す時に、まったくもって心神が“正常”な人っているのだろうか?
ゴルゴ13ぐらいしか思い浮かばないぞ。
別に人殺しじゃなくたって、暴力衝動を持っている人なんかはコトを起こしてる最中は言ってみりゃ心神喪失状態だろう。
酒飲みは酔っ払っている時は明らかに心神喪失だ。
じゃあ泥酔して人殺して記憶がなければ無罪か?
ヤク中は無罪になることもあるみたいだが。
違法薬物でトリップしてる奴が「精神障害者」と認められて無罪ってのも考えてみればぶっ飛んでおかしな話だな…。
それに、責任能力って定義もよく分からん。
どんな人間だっていかなるケースにおいても、人を殺した時にその“責任”なんて取れるわけがないだろう。
正常とされる者だって気狂いだってそれは同じだ。
人の生命を殺めた責任を負う能力なんてもの、誰も持ってないから代替罰が与えられるだけじゃないのか。
それならば罰は決して罪を犯した者の人格に因るものではなく、その罪そのものに応じてのみ与えられるべきだと思う。
それこそが社会の中で権利を与えられてきた人間としての責任じゃないのか。
気狂いだって何も犯罪を起こさなければ一人前に権利だけは認められてきたはずだ。
人権も何ももらってねえよと言うんなら話は別だが、そうではない以上、しでかしたことについての罰はそれこそ差別することなく課さなければ。
もしこのような判決が罷り通るのならば、人を殺した時に無罪と認められる可能性があるすべての人間はコトを為す前に隔離監禁すべきだ、という論法こそが正道。
この論法における結論が成立するわけがないというのは自明であるが故、前提となる“このような判決が罷り通る”という仮定も反故にせざるをえない。


♪ 人間転生 - 真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師


コメント

一般的に見ておかしいこの犯罪/刑罰の相対の
論拠は刑事学の「特別予防」という考え方から来ているようなのだ。
加害者の更正による社会の浄化が目的っつう感じか。

おもわず本投げちゃうよ。んなアホな!ってな。

被害者側の特別予防(加害者に転化する可能性も含めて)の方がよほど大事なんだけど、
自らが被害者になるという想像力の働かない学者というのは
こういう結論に行ってしまうのだな。
人間が刑罰を行使するという畏れ多い概念を純粋に突き詰めりゃそうなるわ。

 一応自発的な行動によって判断能力を失った場合は責任能力があるとされるそうです。(例:飲酒後の運転。麻薬使用の犯罪)

 また、責任能力は判断に関する能力についてですから実行力とは別だそうです。(例:車で意図的に人をはねるだけの能力があっても、その行動をとらせた原因が心神喪失なら無罪)

 これらのことを私は理屈は理解しているのですが、それでも納得はしていません。
 その理由は、鑑定自体の妥当性がどの程度担保されているのかわからないのと、社会に対するリスク管理がいい加減だと感じているからです。
 今の現状では心神耗弱者による損失をすべてそのまま社会に放り出しているようにしか感じられません。

>牛頭大王
おお、そういえば君法学部出身。
裁判の現場における被害者側軽視の現実なんかも最近公になったりしたけど、確かに“法学”とはいかがなものか。
法に限らず、“人文科学”にくくられるものにはすべて個人の主観というものが入り込む余地があるから、どうしたって割り切れないものが出てくるね。

>万打無
判断する能力と実行する能力は別→責任能力の有無が生じる…、という、まさに机上の理屈を実際の犯罪行動にかくも見事に当てはめてきてしまった、という点は、近代民主主義国家の欠陥の1つかもしれませんね。
おっしゃるように、精神鑑定の真偽と厳密性も甚だ怪しいケースがあると思います。
精神疾患の定義と判断も医師によって微妙に異なったりするから、同じ人間でもA氏が鑑定したら「正常」だったけど、B氏によれば「異常」だった、なんてケースもあるでしょうし。
上で牛頭大王も言っているように、人が人を裁くという前提自体に齟齬があるので仕方ないのかもしれませんが…。

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