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2012年11月22日(木)

ホモ・サピエンス

昨夜走った時、また俄かに左ふくらはぎの痛みが襲来しかけたので、今夜のランは大事をとってほぼ6分/kmとゆったりめのペースを維持して、約50分。
ふくらはぎは何ともなかったが、今度は右膝の裏の筋にほんの少しだけ痛みを感じた。
なかなか万全とはいかぬもので。

ちょろっと公園を走っているだけでも、野良猫たちを餌付けする人や、ところ構わず歩きながら喫煙する人や、リードをつけずに飼い犬を歩かせる人なんかを目にして、なんだかなあ、と感じるわけだから、いじめ、というものはどうしたって根絶するものではないんだろうな、という感慨に始まった思考が巡り巡って、やっぱり"自然"って何なんだろう? というおなじみの問いに舞い戻った。

野生動物の世界において、体が大きく力も強い個体が例えば食物を独占して、その結果脆弱な個体が淘汰されてしまったとしても、それは自然のことなので仕方ないなあ、と大方の人は納得する。
が、人間社会で、ジャイアン的な人がのび太的な人を力で押さえつけ、おやつやおもちゃを強奪したとなれば、誰も「仕方ないなあ」なんて思いはしない。
もちろん理性で欲望を律し、他人を思いやることができることこそが、人間が人間たる所以であるわけなんだが、じゃあ動物たちと人間を分かつラインはどこにあって、それは誰が引いたものなのか、と考え出すと、いつも袋小路にはまって行き詰まってしまう。
中には一部の類人猿やゾウなどのように、人間でなくとも高い社会性を備えている動物群は、生存競争に負けてしまいそうな弱い個体を助け、守ったりすることもあるから、余計に訳が分からなくなる。
鳥がいろいろな材料をどこかから持ってきて巣を作り上げる行為は"自然"だけれど、人間が土地を切り拓いてビルを建てることは"自然破壊"である。
こういった表層的な前提が引っ掛かり出したら、答えの出ない思索はもうとめどがない。

本能につき従う多くの生き物よろしく、例えばハンディキャップを抱える人を見殺しにしても仕方ないんじゃないか、なんてことは極論にしたってもちろん思わないけれど、本質的には、人間が弱い者いじめをすることも地球環境を汚染することも科学技術を発展させていくことも、動物の一種が行う"自然な営み"に過ぎないと私は考える。
人間だけが特別だ、と定義することの方に対して、違和感を覚えてしまう。
医療の分野だって然りで、生命体を複製することにつながる技術を反倫理的だとして遠ざけようとする考えもあるが、じゃあかつては不治の病と思われていた難病を治療に導く手法や薬が次々と編み出され、"死んでいたはず"の人の寿命をどんどん伸ばしたり、"生まれなかったはず"の命を救い上げている最先端医療は、それらとどうやって区分されるのか? という疑義も同様に湧き起こる。
そして答えを今私は持たないし、死ぬまで持つことはない、ということは分かっている。

そもそもこんなしょうもないことを考えてしまうのも人間だけ、あとの生きとし生けるものたちは、ただただ、生きている。

私たちは人間である前に、動物である。


♪ Red Sector A - Rush


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