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2006年6月16日(金)

文庫版礼賛

ご周知のように文芸本には単行本と文庫本という2つの主とした形態がある。
僕は以前は「気に入った作家や作品ならやっぱり単行本でしょ」という固定観念で以って、せっせと重くて固くて高価なハードカヴァーを買い揃えていたものだが、最近になってその感覚がちょっと変貌してきた。
価格やサイズや重量などの要素を除外した上で、「文庫本って結構いい、いや、文庫本の方がかえっていいんじゃない?」という気持ちが強くなってきたのだ。

書き下ろしにしろ連載ものにしろ、まとまった形で書籍として初めて世に出る単行本の場合、当たり前のことだけど制作者側が抱く種々の気合が随所に込められることが多くなり、すなわちそれは凝った段組みであったり美麗な表紙画であったり創造的な装丁であったりといった様式に現われる事例が少なくないように思われる。
それはそれでもちろん好ましくないことでもなんでもないし、そういった工夫も含めてその文芸作品の一部たりうる場合もあり、読者である僕も手間隙掛けた装丁やハッと目を惹く扉画に触れると「おお~」と口を開けて感嘆したりもしばしばする。
だけどそういった“中身”以外の諸々の要素は、時として純粋な鑑賞やイメージングを助ける代わりに邪魔をしてしまうことがあるということも、残念ながら皆無ではないと思う。

本にとって最も重要なものは言うまでもなく、本文。
作家によって紡がれた文章群こそが心臓であり、脳であり、目であり耳であり口であり手足である。
装丁や扉画や挿絵や文の組み方は服であり靴でしかありえない。
それらは確かに見た目上、その本に“個性”を与えるかもしれないが、ただひたすらその本の中身が持つ世界に浸りたい時、あるいはその“個性”が邪魔に感じられることも、なくはない。

その点文庫本は、そういった中身以外の装飾が単行本に比べると相対的に少ない。
もちろん各社各書表紙には凝っているだろうし、フォントや段組みなどで少しでも小説の持つ世界観を表現しようとしているのかもしれないが、単行本よりは圧倒的にその余地は狭い。
ものすごく極端で乱暴な言い方をしてしまえば、文庫本は皆同じ顔を持った画一的な書籍スタイル。
だからこそ、その作品を味わう時により純粋な感性で文章群の海を泳ぐことができるような気が僕はする。
パッと見の印象というものは、意外にいろんなところに影響を及ぼす。

そしてさらに大きな特典として、文庫版には巻末に解説が載っているということも挙げておかなければいけない。
外見上の装飾に惑わされることなくその中身を存分に味わいきった後に、その小説の書き手ではない客観的な視点を持った日本語のプロが書く解説を読むことができるなんてなんて幸せな!
皆川博子が書く恩田陸の作品の解説や、山口雅也が書く京極夏彦の作品の解説や、宮部みゆきが書く高野秀行の作品の解説を読むことができるなんて!
単行本が文庫化されるまでの数年は確かに考えようによっては長いが、値段が数分の1に落ちた上にこんな豪華なおまけがついているのだから相殺か。

でもやっぱり「どうしても単行本が欲しい!」という本はハードカヴァーを買うんだけどね…。


♪ Spirit - R. Kelly


コメント

おひさしぶりです。

ボクは『読むのは文庫。集めるのはハードカバー』という人間です。
本もコレクション対象なんですよ~。
そろそろ置場が無くなってきましたが。

中学生に制服を着せると、
必ず個性が出ますよね。
そういうことだと思います。
ぼくも文庫本をそのようにみなおしている一人です。
しかし養老孟司著「唯脳論」なんかは、
編集者がつけた題名らしいです。
だいたいハードカヴァーの出た後に文庫本が出ますよね。
養老先生の書かれた本は、
できるだけハードカヴァーで買うようにしています。

どうしても欲しい本はハードカヴァーで購入。
・・・もう置き場所が無いよう(-_-;)
でも、その装丁にも惚れ惚れしたり致しまする。

文庫になるまで待てない!!策略に陥落でございます。

>りーだー
確かにはハードカヴァーを通勤で持ち歩くのはしんどいですね。
僕も今の家に引っ越す際、最初に確保したのは本の部屋でした…。

>jiji
好きな著者の本は単行本で手元に置いておきたい気持ち、同じくです。
エッセイ集や啓発、解説ものなんかのタイトルは出版サイドが決めることが多いようですね。
「さおだけ屋~」とか「人は見た目が~」とか、それで上手いこと騙してます、世間を(笑)。

>あやっち
文庫化まで長いものでは5年ぐらい掛かったりするやつあるからね。
あやっちも本部屋作る覚悟を!?

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