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2006年6月29日(木)

宗教と科学の両立に関するちょっとした疑問

数日前に映画を観に行った「ダ・ヴィンチ・コード」、その時にも書いたように映画は若干説明不足のために楽しみきれなかったところはあるけれど、原作の小説は巧妙に読者の興味を一歩先一歩先へと導く良質のエンターテインメントになっていて、充分に満足した。
その「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでいた時にも改めて感じたし、まあ以前からもたびたび思っていたことではあるんだけど、西欧その他のキリスト教文化圏の人たちって、よく「信仰心」と「現代科学社会に生きること」を器用に両立させているなあ、と感心してしまう。

かつてガリレオ・ガリレイやコペルニクスといった過去の人物が天が動いているとか地球は丸いとか言って教会に迫害を受けたなんて話は子供の頃に学校の授業でも習うが、いくら敬虔なカトリックの信徒でもそのような前提的摂理を疑う人は21世紀の今は皆無。
それと同様に、一番好きな本は聖書ですなんて信者でも、「人間は神が創りたもうた」と心の底から信じている人はまあいることはいるらしいが、それでも割合的にはごく少数、一応ほとんどのキリスト教信徒たちは、なんらかの進化過程を踏んで人間は別の生物から派生して生まれてきた、という現代の保守本流を占める科学的仮説は支持しているみたい。
新約聖書に書かれてあるイエスの行った奇蹟にしても同様で、描写されている通りの出来事が実際にそのまま起こったと考えている人はマイノリティ、多くの人たちは、書かれている奇蹟はイエス・キリストの神性を抽象的に表現したものである、なんてスタンスをとっているらしく、そもそも聖書学という学問は旧約・新約聖書に著されている「科学の常識とマッチしない数々の出来事」をいかに矛盾や破綻なきように現代の価値観と重ね合わせるか、ということに腐心するものだろう。

実はここらへんが根っからの無神論者、無宗教バンザイの僕としては昔から若干引っ掛かっているところ。
普段から日曜には教会に通って祈りを捧げ、イースターやクリスマスには神に感謝し、打席に入る時やPKを蹴る際には胸の前で十字を切るような生活を送りながら、聖書に出てくる秘蹟や奇蹟を「何かの喩えだ」と割り切ってしまっているところが。

ちょっと大仰な言い方になってしまうけれども、神への帰依とか信仰心ってそういう類のものなのかな?
無条件に神の存在を信じ、ことあるごとにその神に祈り、自分の属する宗派が定める戒律には従うけれど、人間は進化によって誕生したし、杖をかざしたら海が2つに割れたは信じないし、処女のまま女性が受胎するなんてありえないし、人が死んだ後に神として復活するなんてナンセンス、と思うことは自己の内で矛盾はしないのか?
暴論してしまえば、聖書の中に書かれてあることは本当のこともあればウソも混じってますよ、っていうことになるんじゃ?
そういった明確な一線を引いてしまうことができるんだろうか、信仰心の中に。
そうだとしたら、カタコンベの時代じゃあるまいし、そもそも現代の彼らの持つ信仰心を支えているもの、礎となっている源泉は一体何なのだ?
そもそもの信仰の始まりに別に確固たる理由はいらないのか?

僕には生涯理解も感得もできない感覚なんだろう。


♪ Only The Good Die Young - Katmandu


コメント

よく科学と言うと厳然たる事実、動かしようのない真実と受けとめられるかもしれないけど(確かにそういう要素が強いのだけど)、科学だって仮説の積み重ねみたいなところがあると思うよ。
事実はうまく説明できるけど、本当のところはよくわからない。

宗教的な見方だって、科学的な見方だって、結局、人間がどのようにこの世界を捉えたいかだけじゃないのかな。相反するものなのかな?

さあて、どうなんでしょうか・・・

 それを言ったら、戦時中、大多数の方々の方々の教会は昭和14年に公布された「宗教団体法」によって、プロテスタントは「日本キリスト教団」カトリックは「日本天主公教団」の2つに統合されましたが、そのため教会堂の中に神棚を作り、礼拝のプログラムの中で神様より先ず宮城を拝むという、驚くようなことがありました。それに加わらなかった小さな群れには逮捕されることもあったりしました。(【参考】滝川晃一編:雲のごとく,伝道出版社,1987,160-218)

 多くの方々が聖書のことばを都合よく、自分の知っている範囲に収めようとしますが、最終的に神様が判断されることですから・・・(^^;)
ただイエス・キリストご自身こう言っていらっしゃいますね;
「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来た時、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(新改訳聖書第2版,日本聖書刊行会,1987年,ルカの福音書18章8節)

 「私」も彼らの感覚はよくわかりませんが、貴方からすると、もしかしたら、彼らの感覚も「私」らの感覚もよくわからん!!のかもしれませんけど。ま、そういうのもあるんだということで。

 ではこのあたりで。

ちなみに僕の母親は編集長の言うところの、敬虔なクリスチャンであって聖書の言葉1字1句そのまま信じている人だよ。
あそこまでなるには、なにかしら理由があったのだろうけど、
幼い僕にはね何も分からなかったよ。
何事においても最後まで信じるものは救われるのです、ハイ。

>キャベツ
多くは反しませんが、このエントリーのタイトルは「宗教と科学の両立に関するちょっとした疑問」です。
非信徒の定めた法規制という外圧によって、既存のとある宗教の中に他宗教の教義の1つがねじ込まれたという問題をここで同列に論ずることは甚だ無理があるように思います。
現代のキリスト教徒が地動説や進化論を支持する心持ちと、「宗教団体法」とやらで強制された人々が宮城を拝んでいたという行為の間には、信徒の自発性は言わずもがな、何ら共通するものは見出せません。
老婆心ながら最後に付け加えますと、私はここに「理解できない」と書いた感覚はまさに文字通り私の持ちうる感性では捉えることができないからそう表現しただけで、そこに否定、肯定、排他、同調などといった能動的意思ヴェクトルはまったく含まれておりません。

>しお
来たな、科学者(笑)。
なるほど、突き詰めればそういうフィロソフィカルなことになるのかもしれないね。
でもそういう観念的なレヴェルに辿り着く前の、もっと日常的な範囲の中で具体的ないろんな矛盾を抱えながら迷わず(かどうか知らないけど)生活しているという気分が想像しにくいんだよね、即物主義者としては!

ここで私が言っていることはつまり、まさにしおの母御のような信教者にこそ何ら不可解を感じないし、無宗教者であっても理解が容易い感覚である、ということなんだけどね。

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