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2006年11月19日(日)

「北斗の拳」ほんのちょっとだけ考

数日前に武論尊師匠のインタヴューを偶然テレビで観たことを書いたが、その時師は、「僕も原哲夫も、『北斗の拳』はラオウが死んだところで終わるものだと当然思っていた。そこで我々も燃え尽きた。だから修羅の国編以降のストーリーは覚えていない」、という旨の発言をされていたのを、ふと思い出した。
創り手側から言えばまさにそうだろうと思う。
まったく無理もない。
マンガに限らず、作品が人気を得ていくにつれ、その作品は作者の思惑が及ぶ範疇から逃げ出していき、やんちゃな生命を宿したがごとく、勝手に独り歩きしてゆくものだから。

しかし、師も原哲夫御大もそうは仰っているが、リアルタイムで「北斗の拳」に触れ、虜にされ続けていた僕にとっては、修羅の国編以降も紛れもなく稀有な傑作物語である。
その膨張し続けるスケール感、洗練されていく絵柄も含めて、あるいは第1部を凌ぎさえしているかもしれない。
そして、この僕のような感想を抱いている北斗フリークも決して世の中においてマイノリティというわけではなく、第2部を評価しているマニアは存外に多いのだが、カイオウ以後、リュウが登場しサヴァの国やブランカの国を訪れる第3部に入ってしまうと、「あれはない方が…」という考えを持つ同輩は激増することになる。
実際にアニメ放送も、カイオウが死ぬ第2部完結を以って終了している。
だけど僕は、実はこの第3部も大好き。
大乗南拳の遣い手 アサム国王の跡目争いをカイ、ブコウ、サトラ3人の兄弟が繰り広げるくだりも面白いし、ケンシロウに復讐の炎を燃やす盲目のボルゲとの戦いも緊張感に満ちているじゃないか。
確かにラオウの忘れ形見 リュウなんかはあまりに考えなく投入されたおかげで、後付けのバックストーリーなどにとても苦心されたようだが…。

実際には作者自身も力を使い果たし、あとはもう鞭でケツを叩かれるままにひねり出されていながらも、超一級のエンターテインメントとして走り続けた「北斗の拳」、中でも僕がいくら絶賛しても足りないと思っているのは、そのラストシーン。
このような経過と末路を辿った長寿マンガというものはえてしてとってつけたような、どちらかというとブサイクでカタルシスのない終わり方をするものも少なくないと思うが、本当に「北斗の拳」の最後は秀逸。
大仰な言葉を尽くすなら、常に何かを選択してゆくことの連続で成り立っている人間の生において、本当に選ぶべきもの、選ばなければならないものとは何なのか、ということが余すところなく描かれた、まさに渾身のラストである。
かっこよすぎる。

あー疲れた。


♪ ユリア…永遠に - クリスタルキング


コメント

こんなこと書かれたら、また読みたくなってしまうではないか・・・

いいものは何度味わってもいいものだ、読むがいい、強敵よ。

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