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2008年6月20日(金)

たまにはベタに時事

私なんかは、アルカイダ発言で衆目に対して自らがアホであることを誇示した鳩山邦夫法相もたまにはまともなことをするじゃないか、という思いで見ているのだが、宮崎勤死刑執行に端を発し、例の秋葉原の事件と相まって今また死刑廃止論争が俄かに盛り上がってきているらしい。
廃止論者の中に亀井静香がデンと鎮座しているのがまた滑稽の限りだが、それは今回はまあいいか。

それとともに、加藤何某容疑者は若い頃は優秀だったものの挫折を味わって今は派遣社員で周囲に友人もおらず携帯サイトに独り書き込み…、なんてストーリーを作り、かのモンスターはこの社会構造こそが生み出したものなのだ、という論調もここ数日、様々なメディアの上で多く見聞される。
まったくもってピンとこない。
ご立派に基本的人権という大層なものを付与され、職業選択の自由も居住地の自由も婚姻の自由も何もかも手の届くところにあるのに、彼奴が自暴自棄に陥って無差別殺人を犯すに至った要因はこの社会にある、などと言われて、はいそうですかとはとても首肯できない。

誰だって不当な思いを味わうことはあるだろう、生きていれば。
経済的な不自由を感じもするし、疎外感に苛まれることも。
だからといって、「宮崎死刑囚はついに謝罪の言葉を口にすることなく処刑されました。これでは真相の解明はおぼつきません」だとか、「加藤容疑者から、何がそうさせたのかすべてを聞き出し、このような事件が二度と起きないように…」だとか抜かすのはどの口だ。
確かに今回の執行が多分に政治的でダーティな意味合いを持っていたことは疑いないだろうが、この際それは些末な要素だと思う。
封建制度下にあった時代、苛烈な環境の中で生きていた農奴や小作農や人非人よりも虐げられていたか、彼らは?
当時の人々よりも行動を束縛されていたか?

現代だけが猟奇殺人犯や粗暴犯を多く生み出しているという明白なデータがあるのかどうか、私は知らぬまま乱暴にも申し上げているので、間違いがあればどうか訂正していただきたい。

津山三十人殺しや河内十人斬り、大久保清事件や酒鬼薔薇聖斗などを例に挙げるまでもなく、いつの時代にもミュータントらによる凄惨な事件はあった。
そう、彼らはミュータントに違いない。
宮崎勤や加藤智大は時代や社会や風俗が創出したのではなく、極めて例外的な突然変異体なんじゃないか。
決してテレビゲームやアダルトヴィデオや不安定な雇用形態が創り上げたんじゃない、それらが彼らの犯罪行為の表層に影響を与えたことはあるかもしれないが、その根源、彼らの“犯罪を起こす意思”のジェネレーターとなったわけでは決してない。

人を殺したいほど憎く思ったり、性的な欲望に取り憑かれてしまうことがある人は稀ではないだろうが、“殺したいと思うこと”と“殺すこと”の間には、大きな、なんていう表現では生温いほどの隔たりがある。
「私たちの誰もが、ああなる可能性があるのです」なんてしたり顔で物申す方たち、マジョリティの自己抑制能力をあまりに舐めすぎである。

あるいは百歩譲って、人を人とも思わぬような怜悧な殺人行為が現代において増加しているとするならば、それは殖えすぎてしまった人類の種族保全の本能なんじゃないか。
自分で自分を間引いている、と考えればまあ納得がいかないわけじゃないような気もする。

それよりも、あとは消費税を上げるしかありませんねえ、などとほざいている一国の首相とそれに同調する人々こそが、既得権益に死んでもしがみつき続ける本物の醜悪な下衆である。
この地球に存在する国家群の中で、私は日本が特別腐った国でも汚物に染まりきった国とも思いはしないが、それにしたって今の(というか明るみに出ていなかっただけで今に至るまでずっとか、結局)政治には合点がまったくゆかぬ。


♪ Whatcha Want - Hanoi Rocks


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