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2006年7月 7日(金)

生殺与奪を決めるのは?

僕は現在、計19種51尾ほどの魚(とエビ)を4つの水槽で飼育している。
そのうち一番小さな35cm水槽が空いているので、いわゆる小赤(金魚すくいの獲物になっているような小さな金魚。主に大型魚の餌用としてショップで売っている)を買ってきてそこに入れて、120cm水槽に棲んでいる大きな魚どもの餌としてあげようかな、とここのところ企んでいたんだが、「かわいそうだからやめて」という妻のやんわりとした反対にあい、やむなく断念中なのである。

飼っている魚の餌として生きた魚をあげる。
確かにこの行為は理屈の上ではなんだか破綻をきたしているようにも感じられる。
小さいながらもパクパクチョコチョコと懸命に生きているメダカや金魚の命と、それらをガブリと一呑みに喰らうスネークヘッドやナイフフィッシュの命と一体何が違うのだ、と問われてはぐうの音も返せない。
どっちがかわいいかと訊かれたら、ともすれば喰う側の怪魚たちよりも餌となる小魚の方がよっぽど愛らしいのではないか、なんて当の僕でも思うかもしれない。

もし反論するとするならば、大きな魚たちの胃袋に収められる小さな魚たちは決して悪ガキにいじめられて殺されたり残虐な釣り人に岸に打ち捨てられて死に至ったわけではなく、他の生物の貴重な糧としてその尊い生命を捧げたんです、無駄死にではないんです、食物連鎖のピラミッドなわけです、といった具合が精一杯だろうか。

こんな時にいつも思うんだけど、人間は誰だって必ず、生きとし生けるものの命というものに序列をつけている。
命の重さは平等である、なんて虚ろな言葉もあるにはあるが実際にはもちろんそんなことはなく、明確に差がつけられている。
そしてその“命の序列”は言うまでもなく絶対的なものではなく、決める人の主観によって、シチュエーションによって、その他諸々の条件によって変わる。

僕は、メダカや金魚はすまないけれど我が家にいる大型魚の食物となってどうか輪廻に組み込まれてくれたまえよ、と思うことができるが、妻は、メダカや金魚だって生きているんだから配合飼料や冷凍エビとかで大型魚が生きていけるなら餌としてあげなくてもいいじゃない、と感じている。
このように卑近なところで見てみても、僕と妻は明らかに異なる場所にラインを引いている。
過激な環境保護団体が、クジラは賢いんだから食べるな! と叫んだり、反対方向に過激な人々が、野良イヌ・野良ネコは迷惑だから駆逐せよ! なんて主張したりするのは、その極端な例である。

こうなるともうどこまで考えても、何が正解とか何が間違いととかいうことは分からない。

ただ、どんなヴェジタリアンだって必ず何らかの形で他者の生命を犠牲にしなければ生き延びることができないという現実がある以上、誰しもがどこかにそのラインを引かねばならないのだな、自らの主観によって。

もっと飛躍し極論してしまえば、ペットを家で飼うという行為自体がその生物の幸福を損なっている、という考え方もある。
どれだけお金や手間を掛けてもその生き物が野生の状態で生きている環境を完全に再現できるはずはないのだから、スケールの差こそあれすべてのペット飼育は箱庭飼育でしかない、という見方。
つまり、アマゾン川に棲んでいるナマズを日本の家庭の水槽で飼ったり、アフリカにしか棲息していないカメをわざわざ加温したケージ内で飼うのは広義の意味で虐待である、ということ。
品種改良によって純野生のものがいなくなっている、ほとんどのイヌやネコだってもちろん例外ではなく、たとえばロシア原産のシヴェリアンハスキーを高温多湿の日本で健康に飼えるはずがない、とか、温暖な地中海沿岸で生み出された小型犬たちを、ニットを着せてまで冬寒くなる日本で飼うのはバカげている、なんて意見も実際にある。

突き詰めていけば本当にきりがなくてまったく先が見えなくなるし、そうなると僕たちはペットを買うことも肉を喰うこともできなくなりそうなので、せめてその一つ一つの振る舞いや行為に心を込め、無駄な生命はできる限り奪わないように努力するとしよう。
カとかゴキブリは別ね。


♪ I Will Get By - The Grateful Dead


コメント

生き物を真剣に飼っているとぶち当たる壁ですよね、こういうのって。
ワニガメとかを近所の沼に捨てちゃうヒトにこそ、こういうのを色々考えて欲しいんですが、得てしてそういうヒト達はこういう考えまで至らないんだろうなぁ・・・

「カとかゴキブリは別ね。」
という一言に、まさしく編集チョーの語る序列とラインの真実が語られている気がするデス(笑)

たとえばヘビコを飼う場合。ネズミが最高の総合栄養食ということでネズミをやるのですが、冷凍なのと生きたのの二つの選択肢があります。
で。生きたまま餌にするなんて残酷!と思う人も多いだろうけど、そもそも冷凍餌だって、もとは生きていたのを餌にするために殺したわけで…。
では、ナゼにわざわざネズミを殺してまで本来ペットになど成り得ないであろうヘビコなどを飼うのかといえば、やはり人間のエゴなわけで。
結局、何が正しいなんて答えはないのかもしれないけれど、だからこそ、責任を持って最後まで面倒見なければな~と思いますね。

>シンジ
120cm水槽は家庭で使用するには大きな方ではありますが、それでも40cmの魚を飼うにはあまりにも狭いなあ…、と最近よく
思います…。

>ヒ~
最後の1行が言いたいがための長い前フリだったのです!
それを分かっていただいただけで成功でしたな(笑)。

本当に難しい問題ですね。 餌にされる生き物達は自然界で
捕食されるのとは違って、逃れられない運命で生贄みたいな感じがしてしまいます。
かといって言い出したらきりのない話になってしまうし・・・
人間のしている事は罪なことばかりに思えますが、自分の言ってる
事は矛盾だらけなのでいつも考えて悩んだりしています。苦笑

インド仏教では、虫が多くなる雨季にはできるだけ虫を踏んで殺すことがないよう出歩くのを控える、という習慣があったようです。
ここまでいくと突っ込みどころ満載、滑稽ですらありますが、要するに人の原罪はそれほど深く、生きているだけで多くの罪を犯しているものである、という考え方でしょう。
自然科学的な問いとは違いこのように観念的な疑問には観念で答えを出すしかないので、結局は人の数だけスタンダードは生まれてしまうんですね…。
しかも時と場合によって移動する厄介なスタンダードが…(笑)。
でも1人1人がこういうことを考えようとする意識を持つだけでも、なんだか少し世界は住みやすくなるような気がするんですが。

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