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2005年10月13日(木)

成熟する、大人になる

成熟するとはいったいどういうことなのだろうか。

自身を例にとってみると、僕は31歳現在の今よりも、たとえば15歳の時の方が口数も少なかったし、冗談もあまり言わなかったし、はしゃいだり騒いだりすることも少なかった。
裏を返せば、今の方がよっぽど見た目上の振る舞いは幼稚に過ぎるということである。
ティーンエイジャー当時、マンガ「北斗の拳」のケンシロウに心酔していたという驚愕の事実を横に退けておいても、そうである。

だからといって僕の場合は昔の方が精神的により大人で、年をとった今の方が幼いのだ、ということになるのか、という問題である。

断言はできないけれど、たぶんそうではないだろう。

おそらく若かりし頃は、自分を実際以上によく見せたい、かっこいいと思われたいという、思春期特有の背伸び感が多分に働いていたはずで、それによって本心も、さらにその奥にある本音も幾重にも包み込まれていたと思う。
だから比較的今よりも大人っぽく感じられるような言動をしていたに過ぎないだけ。

それに比して現在の方がもちろん知識も経験も微々たるものとはいえ積み重ねてきたはずのものがあって精神的にもタフにはなっているから、本質的には成熟している、と言ってたぶん差し支えないだろう。
少なくとも成長はしていると思う。

じゃあ何で見た目上の振る舞いはより幼児的に退行しているのかというと、自分を偽ったり飾ったりしなければいられないという、いわゆる虚栄心みたいなものが削ぎ落とされていったから、ということになるのだろうか。
自分はこれだけの人間です、コレとコレはできますけどアレとアレはできません、ということがこの歳になってようやく少しずつではあるけれど正直に世間に向けて公表できるようになってきた、とでも換言できるのか。


そして僕はいつもここである意味根元的な、冒頭の問いに立ち返ってしまうのである。


それならば自分の心を覆い隠さずに、正直に素直に感情を表現できることがすなわち“成熟している”、と言えるのだろうか、と。

ちょっと違ったケースに当てはめて考えてみたとしても、事態はさらに混乱する。

たとえば言い方を変えて、じゃあ大人になる、とはいったいどういうことなのだろう。

個人によって程度の差こそあれ、純粋で真っ直ぐで素直で、矛盾や欺瞞や不正がどうしても我慢できなかった少年や少女も、やがて時が経ち歳をとり分類上は“大人”と呼ばれる人種になると、「社会で生きていく中ではこの程度の不条理は仕方がない」という“常識”を必ず身につけるようになる。
つまり、10代の頃はとても狭く小さかった“倫理的許容範囲”というものがより広く、大きくなっていく。

その過程は、果たして“大人になった”と言えるのだろうか。
言ってよいものなのだろうか。


自分ひとりの価値観だけを振りかざして我を張っていても人間社会を暮らしていくことはできない、多少の不条理には目をつぶっても、時には自分の本音を殺して他人と協調していくことこそが大人である、という見方は成立するだろう。
だが一方で、それは大人になるということではなくて、純粋だった心が汚れていくプロセスに他ならない、妥協するのではなくて、自らの主義主張を正しく明らかにできることこそが大人というものである、という見解もあながち間違っているとは言えないような気もする。


バランスだと言ってしまえばそれまでなんだけど。


♪ Breathe - Nickelback


コメント

 子供は自分の弱さを知らないんじゃないですか??
もしくは弱さを隠す方法をしらない。
弱さを認めれる事が大人だと思います。
 それにしても、編集長の子供の頃…想像不可能…
 

やっぱりそうなのかね。
自分の強さだけじゃなく弱さもありのままさらけ出すって実は結構難しいもんね。
え、俺の小学生時代なんてたぶんこのまんまだよ…。

つい最近「大人とはなんぞや?」という壁にぶち当たった。
自分の気持ちを押し殺してクールに語るのが大人なのかと
あたしはずっと勘違いしてた。
本当の気持ちを飾らない言葉で、でも相手を傷つけない言葉で
語れるのが大人なんだろうなぁ、と。
恋すると人間は急速に成長するなぁ。いくつになっても。

おお!
濃いですか。
間違えた、恋ですか。
いやあ、いいですねぇ…。

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