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2005年10月18日(火)

「自然」という言葉

2つ前のエントリー、「ヴォランティア活動に僕が付けてみている意味」にいただいたコメントを読んでふと思った、というか連想したんだが、これまた僕が若かりし頃より抱き続け考え続けている命題、「“自然”の定義とは一体何だ?」。

残念なことながら僕が子供の頃より長い間信じていた「レミングの集団自殺」現象はどうやらガセだったようだが、それだけじゃなくても人間以外の生物が一見すると生存本能に反しているような、つまりパッと見「不自然」な行動を取る例は少なくない。
メスが産卵した後、その産後の肥立ちを助くる滋養となるべく自らの身を餌として捧げるあるクモの仲間のオスたち、などという分かりやすい例を始め、肉食動物に襲われた草食動物の群れの中から1頭、囮となるべく目立って捕まりやすい方向に駆け出る、なんて行為もあったりする。
でもそれら一見「不自然」な行動も、実のところその種族という単位での生き残りを企図した上での本能に則った行動なのだ、ということはおそらく誰もが少々考えれば解るだろう。

じゃあ我々人間というものに立ち戻って考えてみた時に、たとえば私欲のための殺人であったり、盲目的に快適さを求めるあまりの森林伐採や大気汚染であったりといった数々の「不自然」な行為は、よーく考えるとやっぱり動物として自然な行為なのだ、と思うことができる人は果たして少ないであろう、間違いなく。
それらはどこまで譲って考えても「自然」な振る舞いではなく、あくまで禁断の果実を口にしてしまった人間という卑しく浅ましい生き物だけが備えている悪業なのだ、と割と多くの人は思うんじゃないだろうか。

でも僕はこんな考え方や価値観こそが危険であり、そして傲慢なものなんだといつも強く感じる。
人間は「不自然」な生き物だ、環境破壊は「自然」を破壊することと同義だ、なんて捉え方、よくよく考えるとおかしくないだろうか?

人間もこの偉大な自然の一部に過ぎず、特別な生き物なんかじゃない、という認識さえあれば、人間の行う行為もまたすべてが「自然」な行為だと言えないだろうか。
そう考えた方がそれこそ自然な道筋じゃないだろうか。

たとえば、サヴァンナに住むライオンは1頭のオスと数頭のメス、そして仔たちで構成される“プライド”という群れ単位で生活しているが、オス同士の戦いが起こり、プライドのボスが交代すると、新しいボスであるオスは前のボスの仔を皆残らず噛み殺してしまう。
これは言うまでもなく自分以外のオスの遺伝子は残さない、という1種の本能に従った行動であるが、この行為は「自然」だとして、対して性根の悪しき人間が不倫相手の配偶者を殺したい、と考え行動することはじゃあ「不自然」なのか?

僕はそもそも「自然破壊」という言葉も好きじゃない。

モグラは自分の住むところを作るために土を掘り起こす。
シャチは満腹で食べる気もないのに遊び半分でアザラシを噛み殺すことがある。
それらは「自然」な行為。

人間は住むところを築くために木を伐り山を削る。
人間はゲーム・ハンティングと称してただ快楽のためだけに動物を殺すことがある。
これらは「自然」に反している行為?

人間の手など介在していなくても、生態系のバランスが崩れれば種は滅ぶ。
餌が増える→それを食べる生き物が増える→増えすぎて餌が喰い尽くされる→共倒れ、なんて例はおそらく有史以前からまさに枚挙に暇がないだろう。
それは極めて「自然」なプロセスである。
確かに特にここ数百年の人間は、他の動物を獲り尽くし、水を汚し、空気を汚し、緑を減らし続けている。
でも一見「不自然」あるいは「反自然」に見えるそれらの行為も、人間も単なる1種の動物だとするならばあくまで「自然」な一連の行動に過ぎないわけである。
たとえそれが滅亡に至る道程であっても、それは「自然」な成り行き。

そもそもが、近代になって声高に叫ばれてきた「自然破壊」や「環境破壊」なんて言葉も発想も、元はといえば自分たち人間のことだけを考えての産物に他ならない。
地球がどうだの動物が植物がどうだのと言っていても、それは決して地球や動物や植物のためなんかじゃない。
結局地球の環境が汚染され生態系が乱れゆけば、自分たち人間が困るから、ただそれだけ。

原油を始め化石燃料を枯渇させないように大事に使おう、でもやっぱり便利な生活は捨てられないから少々危険でも原子力が必要不可欠だな、植物を根絶やしにしてしまっては我々は生きてはいけない、緑を守り増やすのだ、でもやっぱり山を越えるのはしんどいからドカーンと切り崩してトンネルを通そう、動植物を絶滅させぬよう、そして虐待せぬよう大切に扱おう、でも必要ならば動物実験をして多少の犠牲は払っても医学の進歩を図って人間の病を治そう、このまま温暖化が進めばやばいぞ、CO2排出を抑えるエンジンを開発して冷房設定温度も上げるんだ、でもやっぱりモータースポーツって面白いよね、アホみたいにガソリン喰うF1も仕方ないよね。

矛盾していようが綺麗事だろうが欲望剥き出しの愚行だろうが、すべてが「自然」な出来事。
そこには善も悪も存在していない。


♪ Godzilla - Blue Oyster Cult


コメント

エネルギーは物質の衝突から起こりますし、宇宙レベルのバランスから考えると、人間が地球を破壊することももしかしたら、ただのエネルギーの変化に過ぎないのでは?と思っちゃいます。

ちなみに地球レベルでは、私は”悪こそ神である”という持論を持ってます。
ここでの悪の定義はあくまで人間の価値観ですが…
”悪”がなければ、再生も正義も生まれない。
信仰として神の存在を作り出すのも、悪があるからだと思うので、悪が神を作る、すなわち悪こそ神である…という理論です。
 だから、”自然に反する行為”こそ実は、”自然を守る力”を引き出す行為なのでは?

うーん、なるほど。
まあ今回のエントリーの内容にはあまり関係がないような気がしないでもないけど、なかなか面白い感覚ですな。

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