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2005年10月 3日(月)

音が聞こえてくる写真、映像が見えてくる小説

写真を見たら音が聞こえてきた、という風な感覚にとらわれることが偶にある。
ネイチャー・フォトグラファーの内山りゅう氏が出ていた、昨日放送の「情熱大陸」(MBS)を観ていて、ふとそんなことを想起した。

内山りゅう氏は主に河川や湖などを戦場として“淡水”をテーマに様々な写真を撮って発表しているフォトグラファーで、アクアリウムをやっている者を始め、生き物や自然が好きな人間なら必ずその写真の10枚や20枚は見たことがあるはず。
学校や図書館など、どこにでも置いてあるようなメジャーな図鑑類にも彼の写真はよく採用されているから、特にそういった分野に興味がない人とて知らぬうちに少なからず目にしているかもしれない。
当然僕の家にも彼の撮影した写真が載っている書籍は多い。

彼の撮った写真を以前雑誌で見た時に、まるで自分が現場にいてその光景を肉眼で目の当たりにしているかのように、とても生々しい“音”が聞こえた(ような気がした)ことを、番組を視聴していて思い出した。

内山りゅう氏のものに限らず、本当に“一瞬の事象を切り取った”写真からは音が聞こえてくる、と僕は感じる。
ああきれいだなあ、とか、鮮やかな色だなあ、とか、構図が美しいなあ、とか、よくこんな瞬間を撮ったなあ、とか、もちろんそんなことも込みなんだろうけど、それだけではない写真。
雑誌「ナショナルジオグラフィック」なんか、その“音”が聞きたいがために購読している、と言っても過言では…、いや過言だなそれはやっぱり。


同様に、超絶的な筆力でもって紡がれた小説作品からは、音のみならず“映像”が見えることがある。

よくできた怪談や心霊譚がなぜ恐ろしいのかといえば、それは聞く(読む)人の想像力に強く訴えかけ、その人の脳内に具体的なイメージを結ぶからである。

『家族の皆が寝静まった深夜、ふと自室のベッドで目を覚まして天井を見上げると、そこにはこの世のものとは思えないとても巨大な女の顔が浮かんでいたのです…』なんて話をたとえば読んだり聞いたりした時、人が恐ろしいと思うのは、その光景を実際の“映像”として思い浮かべるからに他ならない。

言い換えると、物語として練り上げられていなかったり言葉の使い方が稚拙な怪談というものは、決して人を怖がらせることはない。

もちろんそれは怪奇譚に限った話ではなく、すべての物語にあまねく及びうる則の一つだと思う。
逆に、小説を読んでいて、あれ、と、少しでもその整合性や語彙の選択や登場人物の心理描写に疑いを抱いてしまった場合、もうそこから先は何ら具体的な“映像”を脳内に創出しながら読み進めることはできない。


文字通り寝食を忘れて夢中になってあなたが貪り読んだあの本は、あなたの内に“映像”を投影してはいませんでしたか?


♪ House Of 1000 Corpses - Rob Zombie


コメント

 経験が豊富な方が、そういう感覚が呼び起こりやすいんでしょうね。
五感で感じることが出来たとき、脳は覚醒するのかも…。
 

今はテレビに限らず何かと“親切過ぎる”時代。
コメントフォローのテロップは言うに及ばず、とにかく“分かりやすく”、“分かりやすく”ということを気に掛けて作ってばかり。
もちろんそれはそれで結構だし、そもそも皆がテレビを“ながら見”している状態ではそれも致し方ない。
でも本当は集中して、まさに喰い入るように観ていればかえってそういった演出は邪魔になるんだけどね…。

私も情熱大陸見ましたよん♪
内なる映像を呼び起こす文章……。まあ私なんてまさしく、そんな世界で仕事やってるわけでして……(^_^;)
でも、果たして自分の作り上げた文章がそれを成しえているかと言うと、甚だ疑問ではありますナ。
私自身は頭の中の映像を文に起こして書いてますけど、読み手側がどう受け取っているかは、聞いてみなくちゃわからない(笑)
映像を思い浮かべていればイイナーと思いながらの試行錯誤です。でもな~。文章力足りないからな、私(というより、時々日本語が不自由……笑)

内なる映像を呼び起こす文章の世界にいたんですか!
文筆業とは聞いていましたが而してその実態や如何に?

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